次のエントリは違うネタにすべし

asahi.comより
http://www.asahi.com/life/update/1120/007.html
大学が学生の帰省旅費を補助 「面倒見のよさ」PR
2006年11月20日12時38分

 帰省して親に顔を見せてあげて――。各地の大学で学生の帰省費用を補助する制度が生まれている。四日市大学三重県四日市市)でも今年から遠隔地への帰省費用の一部を補助する制度を導入。「面倒見のよさを内外にアピールして学生を確保する狙いもある」という。背景には、少子化で学生確保が厳しい大学の生き残り戦略が見え隠れする。
…。
 導入のきっかけは、学生の保護者から「休みになっても帰ってこない」との声が大学に寄せられたためだ。
…。
 文部科学省私学部は「帰省費用の補助は全国的に珍しいようだが、大学の魅力やサービス向上が求められる時代においてPRできる部分だ」としている

今、泣きながらやっている仕事でさんざん押し付けられてくるキーワードが「面倒見の良い大学」。さすがにここまでひどい提案は出されていないわけですが、そんな状況でこの記事を読んで「大学ってなんなんだろう」としみじみ。こんなかたちで「面倒見」をした学生は、社会にでたあとでも誰かに面倒見てもらわないと生きていけないんじゃないか、とか、そういうことを考えているようではだめなんですね、はいはい。まあ、こんなのみていると、そのうち、大学の公募の条件が、「着任時に博士の学位を有する者又はそれと同等以上の能力を有する者」とか言う条件から、「幼稚園・保育園で指導する資格を持つ者又はそれと同等以上の能力を有する者」なんていう条件に変わっていくんじゃないかと(追記:この表現を不快に感じられる方がいることをコメント欄で教えていただきました。申し訳ございませんでした)。
それにしても、大学の魅力をこういうことだと考えている文科省に高等教育を仕切られているというのがニ番目に切ないですねぇ。一番に切ないのは、大学自らがこんなことをやっちゃっている点。番外で切ない点として、学生は、自分(ないし親など)の払った授業料からこのお金がだされていることに気づいていないんじゃないか、という点。かんがえてみれば、時間を空けてこんなエントリしかあげられない自分が最も切ない。

そりゃ壊れちゃいますって。

 …。それにしても、本格的な研究業績は、たしかに減っているようです。とくに、中堅が法科大学院で忙しいためというのはわかるのですが、若手の力作も減っているように思います。ひとつの原因には、研究指導をすべき中堅が、法科大学院に手をとられていることがあるのではないかと思われます。それが、学界全体としての研究水準と、ひいては教育水準を下げることになるのではないかと心配です。研究の停滞は、結局のところ、教育の停滞につながる恐れがあるのです。…。
天才たぬき教授の生活11月3日付エントリ

多分私も「若手」でいいんだよなぁ、ということで、一言。この理由も一つなのかもしれないですが*1、それよりも、雑用学務に押しつぶされているという理由の方が大きいのではないのかと。うちだけかもしれないんですが、働き盛りの中堅以上の先生方が賽の河原法科大学院に専任なり兼担なりで行ってしまわれて、その方々が学部にいれば、やって下さっていたであろう仕事がどこへ行くのかと言うと、こういった流れが上にあがっていくことはないのが世の常でして*2。。。
しかも、法曹養成以後の法学部のあり方、とか何とかいいながら学部改革なんてものに駆りだされるわけです。そこで、「これまでの法学部じゃダメなんだよ!君たちにはやる気がないのか!!」とかいわれるわけですよ、うちの大学の法学部に何十年もいらっしゃった方に、、、そりゃあんたは別組織にいきましたけどねぇ、、、そりゃないっすよ、、、あたしゃここに入って、っていうかこの業界入って4年目なんすよ(涙)。。。
しかも、研究者になろうなんて人間には、動かしたときの事務作業量だとか運営効率だとかを踏まえてシステムを組むというような能力がどこか欠けているわけですよ。その自覚のない方に、自覚のある人間が「それだとシステムがうまくまわらないのでは、、、」とおそれながら申し上げさせていただくと、「そんなことをいっているから君たちは!!」とかいわれちゃうわけでして。いやですからあなたはここにずっと、、、とはいえずに、能力ないけれどないなりに、ちゃんとまわるようにこっそり仕組む算段をこそこそ話し合っているわけです。ただ、それも今月までのはずと言うのが救い。でも「はず」と言うところに一抹の不安が。
そんな切ない状況のもと、若手の論文の停滞が「研究指導をすべき中堅が、法科大学院に手をとられていることがあるのではないか」と思われてしまうと、いずれ「君は学部にいたのに何をしていたんだい」なんてことになって、「まあ、人格的にも能力的にも君なんかより優れた法科大学院卒の研究者がいるから君は要らないよ、ばいば〜い」なんてことになって、まあ確かに人格的にも能力的にも自分には問題あるよなぁ、これからどうしよう、、、なんていう素敵な未来予想図が登場します。しかし、そんな未来を想うよりも、今週の授業の講義ノートっすよ。会議資料っすよ。あいかわらず論文読めないなぁ、、、
とはいえ、また性懲りもなく連載なんぞを始めるわけですが、その校正原稿を読んで、よくもまあ、こんなひどい日本語で原稿を出したもんだと。しかも、情けなくて涙がこぼれそうになったのは、自分で書いたはずなのに、「そうだったっけ?」と思うことが度々あったこと。そして、連載の最後まで原稿が出来上がってないこと。ちゃんと完成するかどうかわからないのが非常に切ないですねぇ。いちおうここまでを書きたくて院に入って10年の修行僧生活を送ることを決めたはずなのに。10年過ぎちゃいますねぇ。。。というよりも、これがあがったらもう抜け殻で、この先何も出すものがないです。どうしましょ。なんていってても何も好転しないわけで。結局は、今日一日の努力。明日もがんばろう。

*1:でも職を得てから研究指導っていうのもなんだかなぁと言う気もしますが。

*2:あがっていったら仕事が倍以上になって下がってくるなんてこともないわけではないわけですっすよし、、、

講義ノートの使いまわしでなんなんですが。

http://www.asahi.com/politics/update/1016/018.html
代理出産、「政府も検討必要」 塩崎官房長官
 塩崎官房長官は16日午後の記者会見で、長野県で50代後半の女性が娘夫婦の代理出産をしていたことに関し、「少子化の時代の中で、こういった問題について検討を関係省庁でぜひやっていくべきではないか。政府としても検討を行う必要性については認識をしている」と述べ、法整備も含めた対応を検討する考えを示した。
 塩崎長官は「人知れず子どもができないことで悩んでいる方が想像以上に多いと聞いている。気持ちは私たちもよく理解できる」と語り、代理出産を選択する夫婦の心情に理解を示した。

http://www.asahi.com/life/update/1017/005.html
代理出産「政府全体で検討が必要」 柳沢厚労相
 柳沢厚生労働相は17日の閣議後の記者会見で、代理出産について「これを支持する世論も見られるようになった」との認識を示し、「政府として世論の帰趨(きすう)を見極めながら、これからどうしていくか方針の検討は必要になるだろう」と述べた。
 代理出産をめぐっては、厚労省の生殖補助医療部会が03年に、代理出産を禁じる報告書をまとめている。柳沢厚労相はこの報告書に固執することなく、代理出産を認めることも選択肢に含めて議論し直す考えを示した。
 また、「親子関係など身分法上の問題もある」として、法務省を含め政府全体で検討していく考えを明らかにした。

ということで、その厚生労働省の生殖補助医療部会が2003年に出した報告書(以下「報告書」)というのがこれ。生殖補助医療全般に関わる報告書です。で、そのうちこの新聞記事にいう代理出産問題に関する部分は、これ

以下、報告書の関連部分を抜粋。

まず、この新聞記事で取りあげられている代理出産という問題は、この報告書では「代理懐胎」と名づけられていて、ここには、更に次の二つの場合が示されます。

第一が、妻が卵巣と子宮を摘出した等により、妻の卵子が使用できず、かつ妻が妊娠できない場合に、夫の精子を妻以外の第三者の子宮に医学的な方法で注入して妻の代わりに妊娠・出産してもらう場合です。報告書では「代理母」(surrogate mother:サロゲートマザー)と呼ばれています。この場合は、遺伝上の母と、分娩した母とは一致しますが、当事者が法律上の母とすることを望むのは、別の女性、ということになります。
第二が、夫婦の精子卵子は使用できるが、子宮摘出等により妻が妊娠できない場合に、夫の精子と妻の卵子体外受精して得た胚を妻以外の第三者の子宮に入れて、妻の代わりに妊娠・出産してもらう場合です。報告書では「借り腹」(host mother:ホストマザー)と呼ばれています。ここでは、遺伝上の母と、分娩した母とが異なる、ということになります。当事者が法律上の母とすることを望むのは、遺伝上の母です。

で、代理懐胎について、報告書はなんといっているか、と言う話になるんですが、そもそも、この報告書においては、生殖補助医療に関して、次の六つの基本的な考え方が示されます。

意見集約に当たっての基本的考え方
・生まれてくる子の福祉を優先する。
・人を専ら生殖の手段として扱ってはならない。
・安全性に十分配慮する。
・優生思想を排除する。
・商業主義を排除する。
・人間の尊厳を守る。

この六つの基本的な考え方をベースにして、

・両者(代理母と借り腹:筆者注)の共通点は、子を欲する夫婦の妻以外の第三者に妊娠・出産を代わって行わせることにあるが、これは、第三者の人体そのものを妊娠・出産のために利用するものであり、「人を専ら生殖の手段として扱ってはならない」という基本的考え方に反するものである。

・また、生命の危険さえも及ぼす可能性がある妊娠・出産による多大な危険性を、妊娠・出産を代理する第三者に、子が胎内に存在する約10か月もの間、受容させ続ける代理懐胎は、「安全性に十分配慮する」という基本的考え方に照らしても容認できるものではない。

・さらに、代理懐胎を行う人は、精子卵子・胚の提供者とは異なり、自己の胎内において約10か月もの間、子を育むこととなることから、その子との間で、通常の母親が持つのと同様の母性を育むことが十分考えられるところであり、そうした場合には現に一部の州で代理懐胎を認めているアメリカにおいてそうした実例が見られるように、代理懐胎を依頼した夫婦と代理懐胎を行った人との間で生まれた子を巡る深刻な争いが起こり得ることが想定され、「生まれてくる子の福祉を優先する」という基本的考え方に照らしても望ましいものとは言えない。

という三つの根拠が示されたうえで、

このように、代理懐胎は、人を専ら生殖の手段として扱い、また、第三者に多大な危険性を負わせるものであり、さらには、生まれてくる子の福祉の観点からも望ましいものとは言えないものであることから、これを禁止するべきとの結論に達した。

と結論づけられています。

ただ、少数意見について、次のような記述も。

なお、代理懐胎を禁止することは幸福追求権を侵害するとの理由や、生まれた子をめぐる争いが発生することは不確実であるとの理由等から反対であるとし、将来、代理懐胎について、再度検討するべきだとする少数意見もあった。

とまあ、こんな感じの報告書ということになります。

講義では、法律上の親子関係がどうなるのか、ってところもチラッと話したんですが、ここでは省略。

で、以下は、私の感想。

まず、報告書の示した三つの根拠はどれも深い問題をはらんでいると思っています。さらに、三つ目については、仮に、代理懐胎によって出生した子が、精子ないし/および卵子の提供者の期待とは異なっていた場合に、提供者がその子の引取りを拒絶したときどうするのか、という問題もはらんでいることを意味していると捉えられます。

また、生まれました良かった良かった、では済まず、その後、その子が成長していく過程に関しても、相当な制度的配慮をする必要がある、ということも確認されます。報告書では、生殖補助医療によって子をもうけた親に対して、カウンセリングの機会の保障子どもが生まれた後の相談が、また出生した子に対して、出自を知る権利が、それぞれ論じられています。

ということで、代理懐胎を含めた生殖補助医療に関して、関連する当事者が多く、しかもそれぞれの当事者に固有の感情的要因が備わりうる状態になり、しかも、長い期間にわたって考慮されるべき要素が存在し続ける以上、単純に「子供を欲する親の心情」だけに焦点を当てて論じることはできない、ということは確実ではないかと*1。さらにいえば、「世論」というなんだかわからない曖昧なものや、「少子化」という曖昧かつマクロな政策目標を根拠にしてしまえるような問題ではないということを、誰か教えてあげる人が必要なのではないかと。

もう一つ、仮に、報道で「代理母」ないし「代理出産」という語ではなく、「借り腹」という語が用いられていた場合、「世論」はどうなっていたんだろう。

*1:ネタばれ注意:宮部みゆきの短編で「この子誰の子」という題名(だったはず)の短編(『我らが隣人の犯罪』所収だったはず)は、代理懐胎を取り扱ったものではないし、小説ということを差し引く必要があるけれども、この問題では理屈で認識し得ない感情的要因がでてくる可能性を示唆しているように感じた記憶あり。また、ハッピーエンドになる筋にはできるけれど、どこか一つほんのちょっと崩れれば、バットエンドになって紛争勃発という微妙な問題だということも。

自分が仕事できる人だとは思わないけれど

ふー。ちょっと一息つける気がする、といっても、会議が終ったわけでなく、技術的・事務的な作業がそれなりに残っていて。科研の申請書も書かなきゃならんなぁ。あぁ、そして講義ノート。。。休日ないのはもうしばらく続きそう。論文、連載第一回の原稿はなんとかあげたけど、研究もぴったり止まってるから今後どうなることやら、、、
謎会議、仕事の結構な部分は、組織間でまともに情報が流れていればやらんですんだ仕事だったということが判明。それは、仕事しないというかできないけど情報を独占して自分のいいように加工して流すだけでえらくなった気分を味わいたい病に罹患した人が上に立つとろくなことがない、ということの証明だったということか*1。給料泥棒なだけじゃなくて、まともに仕事をしているほとんどの教員にとって時間泥棒だった、って言うところが腹立たしい。まぁ、上が変わったから、これからは様々なことがスムーズに運ぶこと間違いなし、と言うところだけが救い。
う〜ん、毒々しい刺々しい文章。精神的にダメな証拠だなぁ。

*1:他組織からの情報がまともに流れて来ないは、自組織の状況を理解できていないのでまともに他組織に情報が流れて行かないは、で様々な大惨事が引き起こされるストーリー。。。

主役はだれ?

憲法論としてはともかく、大体、大人の間で意見が対立していることについて、どちらかを子供に強制しようとするのが間違っているわけでしょう。国旗や国歌を強制すれば秩序が保てると思っている短絡さ、それを処分をちらつかせながら何とか強制しようと言うあさましさ。他方で、強い立場にいるなかで自分の意見を子供に押し付けようとするあさましさ。結局、どちらも強大な力を背景に自分の意見を押し付けようとする、と言う点では違いがない。両極端は性質が似てくる、ということなのだろうか*1。自分の見解だけでなくそれに反対する見解もちゃんと教えて判断する材料を与え、生徒・学生に自らの意見を形成させる。他方で自分は自分の見解にちゃんと従って行動する。何についても、教育ってそういうものじゃないか。
ちなみに、これまででもっともよかったなぁと思った学校行事は、自分のではなく、妹の卒業式。華美ではないけれど、心地よい雰囲気のなかで式が進んでいった。この卒業式、国旗掲揚も国歌斉唱もなかった。もちろん、国旗掲揚も国歌斉唱がなかったから良かったといっているわけではない。何がよかったかと言うと、校長先生の話が非常に良かった。その日は、3月10日。東京大空襲の日。こぶしを振り上げるでもなく、つばをとばすでもなく、本当に穏やかに淡々と、そのとき実際に何が起こったのか、ということを話したあとで、そんなことがないように君たちの未来は自分たちで創って行かないといけない、と生徒に語りかけていた。生徒も静かに聴いていた。後で聞いたら、この校長先生、面白くて生徒に大人気だったそうな。一人の教員として生徒との接してきた三年間の延長にこの卒業式の挨拶がある、と言う感じが、とても印象に残っている。そのときだけとりつくろう、と言うのもやっぱり教育ではないんだろう。
この卒業式、国旗掲揚も国歌斉唱もなかった。けれど、たとえそれがあったとしても、そんなこと関係なかったと思う。国旗掲揚も国歌斉唱も、それがあるかないかは、卒業する生徒にとって何の意味を持たない。

*1:ただ、国家権力に関しては、やはり暴力としての強制力を独占している以上、厳格な基準による裁判所の審査があることは当然、ということも忘れてはいけないのだろう。

桃太郎侍がわからずやを三人ぐらい斬ってくれたら仕事も楽になるんだけど。

地球の公転速度が落ちて、一週間が8日になったとしても、増えた一日も結局仕事しなきゃならないだろうなぁ、なんて思っちゃうほど切ない秋ですねぇ。小さい休日でいいから見つけたい。。。

たわいもないきっかけ

なんだかいつの間にか後期が始まってしまって、なぜか仕事が落ち着くという不思議さ。なんだかわからん書類作りがなくなったというのが一番大きい気が。「夏休み」と言う名にふさわしい何もしないでボーっとする時間が一週間でいいからほしかった、、、
ということで、泣きながら科研費申請の下書きなんかをしていて、ちょっと休憩でお茶を飲もうと思って、ふっとテレビをつけたらちぇるしーvりばぷーるの試合をやっていて、ボーっとみてたら、どろぐば。。。エンドラインとセンターラインのちょうど中間あたりの右サイドから前半ももうすぐ終るし何となく早めに放り込んでみました的なクロスが入ってきて、そこから、どろぐばさん、きゃらがー背負っているにもかかわらず、ペナルティアーク付近でそんないい加減なボールを胸トラップしてボールをきれいに落とすだけでもすげーのに、落とした瞬間に180度右ターン&左足でボレーシュート。見事なミート、そして突き刺さってネット。キーパー呆然。あんなのみたことねー。なぜか知らないけれども笑ってる自分がいた。やっぱりサッカーってすげー。なんだか自分の中のダメな感じが吹っ飛んだ気が。科研費が当たる気すらしてきたところは調子にのりすぎです、はい。