もう少し勉強をしてからエントリをあげるようにします。

考え始めたら止まらなくなってしまったのでもう一度エントリを上げるのですが、もうひとりの自分が「そんなことより論文ちゃんと書きなさい」と言い始めているので、たぶん、これでおしまいになります。

まず、私は、早とちりでおっちょこちょいと指導教官の推薦状にも書かれたことがある人間です。そんな私のなかでは、フィクション論が森田先生のご発言とつながって記憶されていたのですが、「私法70号」で、それが違っていたことを確認しました。申し訳ありません。前のエントリの該当部分については、私の意見(というより妄想)、ということで読み替えていただければ幸いです。

続いて、私は民法研究者の中でもかなり異端、ということもお含みおきください(なかなか民法研究者と性質決定してもらえません)。ということで、「以下に書くこと以外にも、民と商では、シンポについての捉え方もだいぶ違うんだー、という感想」は一般化しないで頂ければ幸いです。ちなみに私は、シンポジウムを含めた学会大会をどちらかといえばお祭りととらえています(その意味では理系っぽい学会のとらえ方です)。

最後に、「そういうことを考えながら研究をするのって、面白いんだろうか」という問いかけですが、それに対する答えとしては、「私が面白いと思うことをやるために必要になったから考えざるをえなかったことなのだけれど、結果としてそれはそれとして面白かった」ということになります。研究を始めたころから私がこうなったら面白い、と思っていたことは、法学の領域においてどこにも位置付けることができませんでした。ということで、研究領域として、法学の中にどこにも自分の居場所がないわけで、かなりの息苦しさを感じていました。そんな息苦しさから解放されるために、私はそういったことを考えざるをえなかったわけです。自分の居場所を自分で作ろうとしたということになるのでしょう(成功しているか否かは不明です)。振り返ってみれば、これはこれ自体としてとても面白かったです(その先を考える方がもちろん面白いのですが)。そんな居場所を作るためには、法学内部のみならず、法学以外の学問領域との関係も考える必要もでてきました。それを考えると、やはり

…、法学以外の学問領域についても「法律」などの形式によって規範を定立することの求められる場合の増えている現状において、法学以外の領域における議論について、それが日本法のなかで体系的にどのように位置づけられ、それぞれどのような法領域のどのような理論と関連するのか、ということを明らかにできる『場』を提供することは、法学に課せられた責務であるともいえよう。

と感じざるを得なかったわけです。これは、本の序論で使った文章ですが、それへの注でこんなことも書いてみました。

 具体的には、例えば経済学に関して、松村敏弘「法と経済学の基本的な考え方とその手法」日本国際経済法学会年報15号78頁(2006年)が、「効率性という評価基準で(全てではないにしろ)主要な議論が完結する経済学の議論と異なり、基本的な人権の尊重や弱者保護等のさまざまな価値観がぶつかり、公正や正義の観点が重要となる法学の議論の整理ははるかに難しい」との認識を示していることと関連する。本文で述べたことは、この問題について、「効率性」が、法体系においてどのように位置づけられ、さらには「基本的な人権の尊重」や「弱者保護」などの価値観、あるいは公正や正義の観点などとどのように関連づけられるのか、ということについて実定法体系に即して議論しうる「場」を設定することが、法学によって行われるべき重要な課題なのではないか、ということである。
 なお、前掲松村論文では、前述の認識を示したのち、「これをわきまえないで、闇雲に効率性という価値基準を押しつけたり、あるいは、正義・公正の問題を、単なる所得分配の公平性の問題にのみ還元する一部の経済学者の悪癖が、一部の法学者に法と経済学に対する不必要な嫌悪感や無関心を生んだのではないかと懸念している」とされたうえで、「法と経済学の分析手法の基礎をなすミクロ経済学の体系を概観し、その基本的な発想を説明することを通して、法と経済学に対する誤解を少しでも減らすことを目標とし」ているとされ、さらに、このような努力を常に続けることは「経済学者の責務」であるともされている。このような真摯な学際的アプローチに対して、法学において法体系的な応答を行うことは、「法学者の責務」なのではなかろうか。

もちろん、こんな大風呂敷をひろげて、じゃあどうするの、ということにこたえ切れるだけの能力は私にはありません(キッパリ)。もちろん、私なりの解答を世に問うことになるわけですが、それ以上に、このような大風呂敷を広げること自体に意味があると思っていますし、なにより、こんなことできたら面白いと思いませんか、という気持ちがあります。
こんな思考経路をたどって研究を進めてきた人間からすると、逆に「そういうことを考えないで研究をするのって、面白いんだろうか」という感想が出てきます。あわてて付け加えますが、伊藤先生を非難しているわけでもなければ、やり返してやると思っているわけでもありません。ここで言いたいのは、研究というのは結局自らの知的好奇心が最も重要なモチベーションになるわけで、その知的好奇心のありかは人それぞれ違って当然だと思う、ということです。そして、生態系において生物多様性が重要なように、研究においても、研究者多様性が重要なのでしょう。また、異なる知的好奇心の存在を認めることも重要なのだと思います。そんな多様な研究が思いもかけないところで交わりあってさらに面白いことが出てくることも十分に考えられますから。ただ、生態系における生物多様性と異なるのは、研究者として存在しているだけでは意味がなく、その知的好奇心の在り様を他者に伝えなければ多様性が維持されない、ということです。結局は、内輪でどんないいことを言っても多様性の維持にはなんら貢献せず、その見解を論文という形で言論のマーケットにちゃんと出さなければならない、ということになるのでしょう。
以上のような捉え方は、伊藤先生が「そういうことを棚上げにしつつやりたい研究をやって書きたい論文を書くというのもありで、私はむしろそっちを選びたい」とおっしゃっていることと重なっているのだと思います。また「『示さなければならならない』『前述の問いに答える努力を真摯に行う責務が法学研究者それぞれにある』といった雰囲気が学界に強く漂いすぎると、一方で、若い者が気軽に論文を公表することを妨げ、他方で、論文を公表しない言い訳に使われる危険もある」という結果は困ってしまいますし、論文の数が、研究者の評価を定める重要な要素の一つであることに異論はありません(できれば「量」という要素も入れてもらえると私でも評価してもらえるようになる気が、、、)。ということで、地道に論文書きに精を出すことにいたします。前回のエントリを含めて、お気に障ることもあったかと存じますが、ご容赦いただけますようお願い申しあげます。

「法学」はもう少し自分を説明できるようになるべきなのでしょう。

このエントリの趣旨

伊藤靖史先生のブログの「『私法70号』で読む商法と民法の交わらなさ」というエントリにコメントを入れようと思ったのですが、長くなったのでここに書くことにしました。普段の筆調と異なるのもそういった理由です。以下、前述のエントリの八つ目のコメント(Posted by いとうY at May 12, 2008 07:27)の続きと思ってお読みください。

コメントその1

おっしゃることもわかるのですが、藤田先生のコメントの内容に鑑みて、おそらく質問票の回答のまえにコメンテーターへの回答をすると、収拾がつかなくなるとの判断もあったのでは、と思います。もし、藤田先生のコメントに報告者からの返答をいれて質疑応答に入ったとすると、質問者が用紙に書いていないことの発言を求めることになるでしょうし、そうなればかなりの空中戦(それも藤田先生のコメントの意図しない方向での)が展開される可能性も無視できない程度存在したのではないでしょうか。そもそも質問票を司会が読むというのは、質問の名を借りて自分の研究報告を始める人を抑えるため、という話を聞いたことがあります。
とまあ、このような話だけだと火に油を注いでいるだけだということも理解しておりますので、エントリの本題となっている藤田先生のコメントについても思ってることを書かせていただきます。

コメントその2

そもそも藤田先生のコメント、あるいは森田先生の質問で問いかけられているのは、究極的にいえば「法学で用いられている従来の研究手法って必要なんですか?」という問題なのでしょう。「禅問答」に限らず、法学的研究手法のかわりに「実証研究」をはめ込めばうまくいく、というのであれば、法学はいらないわけです。もしそうならば、実証研究ができない法学者は転職をしなければならないはずです。すこし厳しい言い方になるかもしれないのですが、「息苦しいから」とか「できないから」、あるいは「一部の人しかやっていないから」という理由では実証研究以外の手法を用いることを正当化できないでしょう。伊藤先生が、藤田先生の示される道だけが私法学の生き残る道ではないとおっしゃっていることは、藤田先生の問いにどのような解答を示すのかということを真剣に考えなければならない「我々」のなかに、実は伊藤先生も含まれているということを意味しているのではないでしょうか。

そこで、もしこの問いに対して、「いえいえ、実証研究ではない手法を用いた研究には意味があるんですよ」というのならば、その根拠を示さなければならないはずです。そして、それは「経済学」だけではなく、ほかの学問領域に対しても説得力をもちうるものでなければならないはずです。裏を返せば、経済学に限定することなく、哲学、社会学経営学や自然科学までを含めた他の学問領域のそれぞれと「法学」はどのように関連するのか、という問題に対して解答を示さないと、経済学ですら適切に法学の議論の中に取り込むことができないといえるのではないでしょうか。

藤田先生のコメントは、そのような問いに対する一つの解答となりえているのだと思います、が、「実証」の名のもとに行われている作業は、人文・社会・自然科学におけるの各学問領域ごとにかなりの違いがあるわけで、しかも「実証」をその手法としない学問領域もあるわけで、そのなかでどの「研究成果」を選択すれば正当化されるのか、あるいはどれとどれをどのように組み合わせれば正当化されたこととなるのか、というところについては、別個の何らかの知的作業が必要になるのだとと思います。それは、藤田先生のコメントの中でも、「政策」あるいは「競争」という形で射程が絞られている、というところで行われている作業なのだと思います。そのあたりに、じつは(私)法学の生き残るもう一つの道が存在していると考えています(生き残る道はこれ以外にもいくつでもあっていいんですが)。

結局は「禅問答」を含めて法学がやっていることは何なのかという問いに対して、法学以外の学問を修めている方々に理解可能な形で答える必要がある。そして、その問いに答えられないのであれば、「法学」は誰からも認められなくなっていき、消滅していく運命にあるのでしょう。本当に要らないのであれば消えてしまってかまわないと思うのですが、少なくとも10年と少し研究をしてみて、法学は社会から必要とされている、そして他の学問領域とは異なる重要な責務を担っている、と考えています。ということで、前述の問いに答える努力を真摯に行う責務が法学研究者それぞれにあるのでしょう*1

ちなみに、吉田先生の最後の包括回答のなかで、森田先生の質問に対して、来栖先生のフィクション論を引いたところは、以上のような状況のなかでの吉田先生なりの解答として捉えうると思います。時間の関係でかなり駆け足だったので素気なく感じられはしますが、少なくとも「まともに答えられていない」とばっさり切り捨てられるようなものではなく、しっかりとした検討を行うに値する内容なのだと思います。実証研究とは、仮説をたてその実在を問う、という営みであるのでしょう。それに対して、フィクションは、任意の、意識的な実在からの遊離であり、それ自体が実在であることを求めない、とされています*2。このようなフィクションが法学において意味をもちうるか否か、そして「本音」として位置づけることができるか否か、を考察することは、前述の「法学のやっていることは何か」という問いに対する考察ともなる、といえるのではないでしょうか。

おまけ

一応、今現在のところの私なりにこんな問題意識をあわせて書いた論文にいろいろくっつけたものが、今度本になります*3私法学のメインストリームからまったく外れていろいろな隙間に向かっているという内容なのですが、そしてなんだか宣伝につかってしまうようで申し訳ないんですが、もし、ご興味を持っていただけたなら、出版後に改めて宣伝に伺いますので、お読みいただければ幸いです。

*1:そういうことを問わないですんでいた時代は幸せな時代だったのかもしれないですが、少なくとも私にはその時代は面白いと思えなかったでしょうから別の学問に行っていたと思います。

*2:来栖三郎『法とフィクション』6頁(東京大学出版会、1999年)。

*3:たぶん、三校までいっているので、やっぱりやめたとは言われないはず、、、

肝臓が悲鳴を上げているということ

新年になって10日以上もたって、ようやく新しい気分で仕事をしよう、なんて思い始めた私はだめですねそうですね。しかし、振り返ってみれば、昨年ってあったの、というぐらい駆け足で通り過ぎていった気がしてしまう。時間泥棒に盗まれた時間はとりもどせないのかねぇ、モモ。とまぁ、とにかくなんだかわからないけれども忙しかった。今年は、なんとか新しい年度が始まるまでに色々にけりをつけて、新年度には、すこしゆとりをもてるように、したいなぁ。今年の目標は、一月に一回美術館に行く&二月に一回クラシックのコンサートかジャズのライブに行く、ってことで。
もひとつ、今年の目標は、とにかく本を読む、ということ。昨年まで、勤め始めてから本当に本を読んでいない。そして、本を読む大事さを思い起こさせてくれたのが、正月休みに読んだこの本。

デザインのデザイン

デザインのデザイン

ハッとした部分を二つほど引用。

 何かをわかるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ、知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋がる。たとえば、ここにコップがひとつあるとしよう。あなたはこのコップについて分かっているかもしれない。しかしひとたび「コップをデザインしてください」と言われたらどうだろう。デザインすべき対象としてコップがあなたに示されたとたん、どんなコップにしようかと、あなたはコップについて少し分からなくなる。さらにコップから皿まで、微妙に深さの異なるガラスの容れ物が何十もあなたの目の前に一列に並べられる。グラデーションをなすその容器の中で、どこからがコップでどこからが皿であるか、その境界線を示すように言われたらどうだろうか。さまざまな深さの異なる容器の前で、あなたはとまどうだろう。こうしてあなたはコップについてまた少し分からなくなる。しかしコップについて分からなくなったあなたは、以前よりコップに対する認識が後退したわけではない。むしろその逆である。何も意識しないでそれをただコップと呼んでいたときよりも、一層注意深くそれについて考えるようになった。よりリアルにコップを感じ取ることができるようになった。
 机の上で軽くほうづえをつくだけで世界は違って見える。物の見方や感じ方は無数にあるのだ。その無数の見方や感じ方を日常のものやコミュニケーションに意図的に振り向けていくことがデザインである。
原研哉『デザインのデザイン』まえがき1-2頁(岩波書店、2003年)

「コップ」や「皿」のところに民法憲法行政法会社法、刑法、民事訴訟法などなどを入れてみると、もっといえば、法学、経済学、、、を入れてみると、そう思うと、やりたかったことの一部がすっと言葉になっている気がする。もう少し早くこの本を読んでいれば、論文を書くときに、そしてそれを本にするときに、もう少し自分の持っているイメージを感じやすくなっていて、そしてそれを言葉にまとめやすかったんだろうなぁ。もう一つ、同じ本から。

 一方、テクノロジーがもたらす新たな状況だけではなく、むしろ見慣れた日常の中に無数のデザインの可能性が眠っていることに、今日のデザイナーは気づきはじめている。新奇なものを作り出すだけが創造性ではない。見慣れたものを未知なるものとして再発見できる感性も同じく創造性である。すでに手にしていながらその価値に気付かないである膨大な文化の蓄積とともに僕らは生きている。それらを未使用の資源として活用できる能力は、無から有を生み出すのと同様に創造的である。僕らの足下には巨大な鉱脈が手つかずまま埋もれている。整数に対する小数のように、物の見方は無限にあり、そのほとんどはまだ発見されていない。それらを目覚めさせ、活性させることが「認識を肥やす」ことであり、ものと人間の関係を豊かにすることに繋がる。形や素材の斬新さで驚かせるのではなく、平凡に見える生活の隙間からしなやかで驚くべき発想を次々に取り出す独創性こそがデザインである。モダニズムの遺産を受け継ぎ、新たな世紀を担っていくデザイナーたちは、そういう部分に徐々に意識を通わせはじめているのである。
前掲書23-24頁
強調は引用者

私がやりたいと思っていることは、「見慣れたものを未知なるものとして再発見すること」、まさにこういうことなんだなぁ、と実感。新しいことを学べるというだけでなく、自分自身にことばや形を与えてくれるんだから、もっと本を読まないとなぁ、ということで今年の目標に設定。でも、読んでない法学系の本も積まれているところが痛い。。。

我々の仕事に「研究」が含まれていないことを再確認したこと

すさんだ心に朗報が届くと癒されますねぇ>Kaffeepauseさん
でも、まだ一回の表をなんとか無失点で切り抜けてホッとしている、という感じなのかもしれないですね。研究に集中できるという時間はとてもとても貴重なものですから、一球一打を大事にしていってください*1

さて、振り返れば仕事の山々のはるか向こうに微かに見える先週末、私法学会に行ってきたわけです。いろいろと勉強をさせていただいたわけですが(建前)、一番おもしろかった考えさせていただいたのが、初日のシンポジウムの最後の森田果先生のコメントだったわけで、そこで示された「本音」と「建前」について、ちょっと考えてみたりしました。そのコメントは、うろ覚えなんですが、たしか、こんな内容。

結局、民法学の議論としてやられていることは独自の排他的な理屈に基づく「建前」であって、「本音」ではないんじゃないですか。「建前」を用いることで、民法学者が競争減殺的な効果を享受できることはわかるけれども、やっぱりちゃんと「本音」で語ることが必要なんじゃないですか。

で、おそらく、言わんとすることは以下の櫻井敬子先生の引用している話と同じなんじゃないか、と思っています。

 遠藤博也教授は、歴史に残る名著『計画行政法』(学陽書房・1976年)のなかで、若い頃、法解釈論と立法政策論を混同するごときは「法学のイロハもわきまえない大変な誤り」とされていたことを述懐し、しかし、「政策と無縁の顔をした法解釈論」が実は「一面的で素朴極まりない政策論」を前提としたものが少なくないこと、法律は「超越的な国家意思の表現」などではなく「政策の手段であり道具のひとつ」であって、現代国家における公益は「創造的活動を通じて形成される」ものであり、「具体的状況に依存する、複雑困難な利益考量」が必要であると説く。そして、従来の行政法学が現代的課題を扱う方法論を持ち合わせず、「伝統的行政法学を墨守している潮流」が、たとえば宅地開発指導要領の内容の合理化に役立つものを何一つ出せず、かりに地方公共団体から相談を受けたとしても、行政法学者のなしうる答えは、あれこれ問題を指摘したあげくに、「法的な拘束力のない行政指導だからいいのじゃないですか。」という程度の消極的なものに過ぎないことを嘆かれた。

櫻井敬子「書評 福井秀夫著『司法政策の法と経済学』」自研83巻4号137頁(2007年)

もし、この理解でよければ、これらの指摘の源となっているであろう現状認識自体には異論はないです。表現の仕方にイラッときたか否かは別として、民法を研究対象としている人のなかでも同意する人は珍しくはないんじゃないかなぁと思うんですがどうでしょう*2

ただ、本当の問題は、その先にある「じゃあどうするの」ってところにあるんじゃないか、と思っています。指摘をするだけにとどめるだけではせっかくの発言のおもしろさ意義も減殺されるのではないかということです。こんな意識から、上述の指摘については少なくとも次の二つの疑問に答えられる理論枠組を提示する必要があるんじゃないかなぁ、と思ってます。

「本音」の部分には、一体何が入るのか?

一つ目の疑問は、「本音」の部分には一体何が入るのか?というものです。現在の議論状況に鑑みれば、「経済学」が最有力候補に挙げられそうなんですが、はたしてそれでよいのか、っていうかそれだけでよいのか、ということが問題になります。仮にそれじゃだめ、ってことになると、本音の部分に何が入るのかが示される必要がありますし、それだけじゃだめ、ってことになったら、こんどは、本音の内部にどの学問領域の知見を入れることができて、その複数の学問領域の知見間での調整をどう図るのかが示される必要があるということになるでしょう。
とりわけ、これまで民法では哲学やら思想やらというものをベースに理論が組み立てられてきたわけなので、その辺はどのように扱われるのか、ということが明らかにされる必要があるでしょうし、そもそも哲学やら経済学やらがなんで「本音」に入りうるのか、ということも正当化されないといけないんでしょう。でもどうやってこれらを法学的に正当化するんでしょ?

「本音」と「建前」という表現が果たして適切か?

もうひとつは、「建前」には意味がないのか、ということです。この文脈では、「本音」という言葉には、「口に出しては言えない(言うことがはばかられる)本心」という意味が、「建前」という言葉には「表向きの基本方針」という意味が、それぞれ当てはまりそうです*3
で、前述の森田発言&櫻井論文を私なりに勝手に解釈してしまうと、「本音」=「政策論を含めた価値判断」、「建前」=「法的思考・専門用語・体系整合性などを基礎に置く法解釈論」となるのかなぁと思っています。もし違ったらこの後の話は全て吹っ飛びます。
で、疑問は、はたして「建前」には何の意味もないのか、というものです。「本音」を表に出すことは重要だけれども、それだけでいいのあなぁという疑問です。ちなみに、櫻井敬子先生は、こんなこともおっしゃっています。

法治国家のもとにおける法とは何かを突き詰めていくと、少なくともそれは経済合理性ではまったく割り切れない何物かということになろう。それは、ある意味で人間の存在性そのものに関わる問題ともいえるが、法治国家を支える究極の根拠は社会構成員の相違という他なく、種々の規範、倫理、宗教、歴史、風俗、情緒、感覚、本能そうしたものの総体によって構成される「皆が良いと思うこと」と表現するしかない。法学は現実社会の混沌をそのまま関心対象とする。具体的な政策論の場面においてすら、現実の人間の行動は計り知れない。経済学の守備範囲を、学問として、あるいは政策論の場面で、どのように自己限定するのか、経済学の自己認識を知りたいものである。いたずらに法学を「非科学的」と見下すことなく、国民の大きな便益を目指し、法学と経済学の建設的な関係を構築するに当たり、省略不能のプロセスと考える。

前掲論文145頁

となると、「建前」にも実質的な存在意義がありそうな気がするわけです。そうすると、「建前」という用語法は、感情的な刺激を与えるという意味で効果があったのかもしれないけれども、実際の問題を把握するに当たってはあんまり適切じゃないんじゃないのかなぁ、という気がしてます。

で、ここからは我田引水になるのですが、

*1:こういうのを老婆心というのかなぁ、、、っていうかこんなことをいうってことは歳をとったってことなのかなぁ、、、

*2:っていうか、そもそも私の場合は、研究内容を「民法」と性質決定してもらえないんで、民法の研究者としてカウントされませんねそうですね。つい先日も、私の大学院時代の指導教官は行政法の先生だと思っていた、とのお言葉を頂戴いたしました。。。

*3:それぞれは、『新明解国語辞典(第五版)』から引っ張ってきました。

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みんなで私心なく目標に向かって一致団結、っていうのは学生の特権なんですかねぇ。

長らく放置をしてきたのはもちろんお仕事のせいです(きっぱり)。ようやくお仕事にめどが立ったかなぁ、といいながら、そのお仕事は予定では7月末に終わっていたはずだったというところに切なさがみなぎっている感じで。連載論文打ち切りの危機、ってだれも困らないですよね、そうですね。
そんななか、建築をやっている院生の妹が参加しているプロジェクト(お祭りに合わせた社会実験)で人手が足りないということで、昨日まで一週間ほど東北のほうに駆り出されてしまいました。土嚢積み(など)のボランティア。もちろん空いた時間は論文だの講義ノートだのとお仕事山積みだったので、観光なんてできませぬ(涙)。
泥だらけになりながら、腕と顔と脛あたりだけが真っ黒に焼けてしまって、体力的にはかなりきつかったわけです。しかし、同じ「研究」でも、目的も手法も全く違う分野の研究に参加できて、とても有意義でした。というよりも、楽しかった。なによりも、多くの人に楽しんでもらうっていう目的の、しかも実際に小さい子供からお年寄りまでの笑顔を見ることのできる「研究」というのうらやましかったし、このプロジェクトにかかわった地元の人が、自分にかかわるところを越えて一文の得にもならないのに自発的にプロジェクトの仕事に参加してくれて、しかも祭り直後の片づけでの土嚢回収という極めてがっかりな仕事の終わったあとでもすげ〜いい笑顔ができるっていうのも、うらやましくてたまらなかったです。もちろん、どこにでもいる口ばっかりで仕事しない奴というのも(しかもそんなやつに限って無能なくせにリーダー面する、そして全体のコミュニケーションを妨げるっていうのも)少数ながらもいやがってカチンときていたわけですが、それはどの組織でもあることでしょう。これから法律を研究していって、こんな経験をすることはあるんだろうか、なんてことを宿舎に帰って仕事しながら思ってしまいました。法律をやっていて、誰かも屈託なく笑えるようなものを創れるのかというと、、、誰か泣かないようにする、っていうのも大事だとは思うけれども。わたしは進む道があっていたのかなぁ、と思い悩んでしまいました。
とか思ったりしていましたが、ゲルマンとかで楽しく飲んでいる感じをブログなんぞで読ませていただくと、まあ、こんな世界に来たのもありかなぁという気もしてきちゃったりして。

どっと疲れが、、、

公権力の行使概念の研究

公権力の行使概念の研究

ということで、この本(以下「本書」)を購入しました。忙しすぎてじっくりと読む暇がないけれども、届いてすぐに「はしがき」「序章」「終章」を読んでみました。流し読みです。ですので、読み間違いかもしれません。本当は、感想を書くには、時間をかけて読まないといけないのだと思います。でも、感想です。しかも、内容についての感想ではなく、その手法についての感想です。あんまり良くない意味で悩ましくなりました。ちょっととげとげしい文章になっていますので、隠しておきます。

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「いきぬき」の変換候補の最初が「生き抜き」というのはやめて欲しい。

朝目覚めた瞬間に、今日一日、頭がまるで働かないであろうことを実感。天気も良いことだし、今日一日を完全に休養日にすることが決定。完全休養日をつくると明日からきついんだよなぁ、と思いつつも、近所のうどん屋での昼ごはんまでは、掃除したり洗濯したりしたり。で、午後になって、美術館に行く気力はないなぁということで、久々に自転車でぐだぐだ雑貨店めぐりをしようと決意したのですが、これが大失敗。くだらない物が大好きなうえに、ストレスのたまっている状態では、理性が働かないものでして。一応、スリッパとバスケット(雑貨入れ)ぐらいを購入しようと思っていたのですが、それに加えて、ぱっと見ていいなぁと思ってしまったこんなおもちゃ時計とか、はたまた「そういえば座椅子のスポンジがわれて骨組みが頭に当たって痛いんだよなぁ」と思っている矢先に出会ったこんなゾウとかまで買っちゃう始末で。そのうえで、ダメな気分を表してピンクのクレリックシャンパンゴールドのネクタイというコンビでシャツとネクタイまで購入。さらに、卒業式で学生からもらった花を家に飾っていたら、なんか気分が良かったのを思い出して、なぜか花まで購入。まぁ、どうせGWは引きこもって、講義ノートつくったり*1、前の論文に手を入れて書き直したり*2、今の論文を書き進めたり*3なわけだから、このくらいの散財はしょうがないかなぁ、ということで、息抜き終了。明日から、またがんばれ、自分。。。

*1:最低限のノルマ、、、

*2:できたらいいなぁ、、、

*3:できたらいいなぁ、、、