主役はだれ?

憲法論としてはともかく、大体、大人の間で意見が対立していることについて、どちらかを子供に強制しようとするのが間違っているわけでしょう。国旗や国歌を強制すれば秩序が保てると思っている短絡さ、それを処分をちらつかせながら何とか強制しようと言うあさましさ。他方で、強い立場にいるなかで自分の意見を子供に押し付けようとするあさましさ。結局、どちらも強大な力を背景に自分の意見を押し付けようとする、と言う点では違いがない。両極端は性質が似てくる、ということなのだろうか*1。自分の見解だけでなくそれに反対する見解もちゃんと教えて判断する材料を与え、生徒・学生に自らの意見を形成させる。他方で自分は自分の見解にちゃんと従って行動する。何についても、教育ってそういうものじゃないか。
ちなみに、これまででもっともよかったなぁと思った学校行事は、自分のではなく、妹の卒業式。華美ではないけれど、心地よい雰囲気のなかで式が進んでいった。この卒業式、国旗掲揚も国歌斉唱もなかった。もちろん、国旗掲揚も国歌斉唱がなかったから良かったといっているわけではない。何がよかったかと言うと、校長先生の話が非常に良かった。その日は、3月10日。東京大空襲の日。こぶしを振り上げるでもなく、つばをとばすでもなく、本当に穏やかに淡々と、そのとき実際に何が起こったのか、ということを話したあとで、そんなことがないように君たちの未来は自分たちで創って行かないといけない、と生徒に語りかけていた。生徒も静かに聴いていた。後で聞いたら、この校長先生、面白くて生徒に大人気だったそうな。一人の教員として生徒との接してきた三年間の延長にこの卒業式の挨拶がある、と言う感じが、とても印象に残っている。そのときだけとりつくろう、と言うのもやっぱり教育ではないんだろう。
この卒業式、国旗掲揚も国歌斉唱もなかった。けれど、たとえそれがあったとしても、そんなこと関係なかったと思う。国旗掲揚も国歌斉唱も、それがあるかないかは、卒業する生徒にとって何の意味を持たない。

*1:ただ、国家権力に関しては、やはり暴力としての強制力を独占している以上、厳格な基準による裁判所の審査があることは当然、ということも忘れてはいけないのだろう。