もう少し勉強をしてからエントリをあげるようにします。

考え始めたら止まらなくなってしまったのでもう一度エントリを上げるのですが、もうひとりの自分が「そんなことより論文ちゃんと書きなさい」と言い始めているので、たぶん、これでおしまいになります。

まず、私は、早とちりでおっちょこちょいと指導教官の推薦状にも書かれたことがある人間です。そんな私のなかでは、フィクション論が森田先生のご発言とつながって記憶されていたのですが、「私法70号」で、それが違っていたことを確認しました。申し訳ありません。前のエントリの該当部分については、私の意見(というより妄想)、ということで読み替えていただければ幸いです。

続いて、私は民法研究者の中でもかなり異端、ということもお含みおきください(なかなか民法研究者と性質決定してもらえません)。ということで、「以下に書くこと以外にも、民と商では、シンポについての捉え方もだいぶ違うんだー、という感想」は一般化しないで頂ければ幸いです。ちなみに私は、シンポジウムを含めた学会大会をどちらかといえばお祭りととらえています(その意味では理系っぽい学会のとらえ方です)。

最後に、「そういうことを考えながら研究をするのって、面白いんだろうか」という問いかけですが、それに対する答えとしては、「私が面白いと思うことをやるために必要になったから考えざるをえなかったことなのだけれど、結果としてそれはそれとして面白かった」ということになります。研究を始めたころから私がこうなったら面白い、と思っていたことは、法学の領域においてどこにも位置付けることができませんでした。ということで、研究領域として、法学の中にどこにも自分の居場所がないわけで、かなりの息苦しさを感じていました。そんな息苦しさから解放されるために、私はそういったことを考えざるをえなかったわけです。自分の居場所を自分で作ろうとしたということになるのでしょう(成功しているか否かは不明です)。振り返ってみれば、これはこれ自体としてとても面白かったです(その先を考える方がもちろん面白いのですが)。そんな居場所を作るためには、法学内部のみならず、法学以外の学問領域との関係も考える必要もでてきました。それを考えると、やはり

…、法学以外の学問領域についても「法律」などの形式によって規範を定立することの求められる場合の増えている現状において、法学以外の領域における議論について、それが日本法のなかで体系的にどのように位置づけられ、それぞれどのような法領域のどのような理論と関連するのか、ということを明らかにできる『場』を提供することは、法学に課せられた責務であるともいえよう。

と感じざるを得なかったわけです。これは、本の序論で使った文章ですが、それへの注でこんなことも書いてみました。

 具体的には、例えば経済学に関して、松村敏弘「法と経済学の基本的な考え方とその手法」日本国際経済法学会年報15号78頁(2006年)が、「効率性という評価基準で(全てではないにしろ)主要な議論が完結する経済学の議論と異なり、基本的な人権の尊重や弱者保護等のさまざまな価値観がぶつかり、公正や正義の観点が重要となる法学の議論の整理ははるかに難しい」との認識を示していることと関連する。本文で述べたことは、この問題について、「効率性」が、法体系においてどのように位置づけられ、さらには「基本的な人権の尊重」や「弱者保護」などの価値観、あるいは公正や正義の観点などとどのように関連づけられるのか、ということについて実定法体系に即して議論しうる「場」を設定することが、法学によって行われるべき重要な課題なのではないか、ということである。
 なお、前掲松村論文では、前述の認識を示したのち、「これをわきまえないで、闇雲に効率性という価値基準を押しつけたり、あるいは、正義・公正の問題を、単なる所得分配の公平性の問題にのみ還元する一部の経済学者の悪癖が、一部の法学者に法と経済学に対する不必要な嫌悪感や無関心を生んだのではないかと懸念している」とされたうえで、「法と経済学の分析手法の基礎をなすミクロ経済学の体系を概観し、その基本的な発想を説明することを通して、法と経済学に対する誤解を少しでも減らすことを目標とし」ているとされ、さらに、このような努力を常に続けることは「経済学者の責務」であるともされている。このような真摯な学際的アプローチに対して、法学において法体系的な応答を行うことは、「法学者の責務」なのではなかろうか。

もちろん、こんな大風呂敷をひろげて、じゃあどうするの、ということにこたえ切れるだけの能力は私にはありません(キッパリ)。もちろん、私なりの解答を世に問うことになるわけですが、それ以上に、このような大風呂敷を広げること自体に意味があると思っていますし、なにより、こんなことできたら面白いと思いませんか、という気持ちがあります。
こんな思考経路をたどって研究を進めてきた人間からすると、逆に「そういうことを考えないで研究をするのって、面白いんだろうか」という感想が出てきます。あわてて付け加えますが、伊藤先生を非難しているわけでもなければ、やり返してやると思っているわけでもありません。ここで言いたいのは、研究というのは結局自らの知的好奇心が最も重要なモチベーションになるわけで、その知的好奇心のありかは人それぞれ違って当然だと思う、ということです。そして、生態系において生物多様性が重要なように、研究においても、研究者多様性が重要なのでしょう。また、異なる知的好奇心の存在を認めることも重要なのだと思います。そんな多様な研究が思いもかけないところで交わりあってさらに面白いことが出てくることも十分に考えられますから。ただ、生態系における生物多様性と異なるのは、研究者として存在しているだけでは意味がなく、その知的好奇心の在り様を他者に伝えなければ多様性が維持されない、ということです。結局は、内輪でどんないいことを言っても多様性の維持にはなんら貢献せず、その見解を論文という形で言論のマーケットにちゃんと出さなければならない、ということになるのでしょう。
以上のような捉え方は、伊藤先生が「そういうことを棚上げにしつつやりたい研究をやって書きたい論文を書くというのもありで、私はむしろそっちを選びたい」とおっしゃっていることと重なっているのだと思います。また「『示さなければならならない』『前述の問いに答える努力を真摯に行う責務が法学研究者それぞれにある』といった雰囲気が学界に強く漂いすぎると、一方で、若い者が気軽に論文を公表することを妨げ、他方で、論文を公表しない言い訳に使われる危険もある」という結果は困ってしまいますし、論文の数が、研究者の評価を定める重要な要素の一つであることに異論はありません(できれば「量」という要素も入れてもらえると私でも評価してもらえるようになる気が、、、)。ということで、地道に論文書きに精を出すことにいたします。前回のエントリを含めて、お気に障ることもあったかと存じますが、ご容赦いただけますようお願い申しあげます。