「法学」はもう少し自分を説明できるようになるべきなのでしょう。

このエントリの趣旨

伊藤靖史先生のブログの「『私法70号』で読む商法と民法の交わらなさ」というエントリにコメントを入れようと思ったのですが、長くなったのでここに書くことにしました。普段の筆調と異なるのもそういった理由です。以下、前述のエントリの八つ目のコメント(Posted by いとうY at May 12, 2008 07:27)の続きと思ってお読みください。

コメントその1

おっしゃることもわかるのですが、藤田先生のコメントの内容に鑑みて、おそらく質問票の回答のまえにコメンテーターへの回答をすると、収拾がつかなくなるとの判断もあったのでは、と思います。もし、藤田先生のコメントに報告者からの返答をいれて質疑応答に入ったとすると、質問者が用紙に書いていないことの発言を求めることになるでしょうし、そうなればかなりの空中戦(それも藤田先生のコメントの意図しない方向での)が展開される可能性も無視できない程度存在したのではないでしょうか。そもそも質問票を司会が読むというのは、質問の名を借りて自分の研究報告を始める人を抑えるため、という話を聞いたことがあります。
とまあ、このような話だけだと火に油を注いでいるだけだということも理解しておりますので、エントリの本題となっている藤田先生のコメントについても思ってることを書かせていただきます。

コメントその2

そもそも藤田先生のコメント、あるいは森田先生の質問で問いかけられているのは、究極的にいえば「法学で用いられている従来の研究手法って必要なんですか?」という問題なのでしょう。「禅問答」に限らず、法学的研究手法のかわりに「実証研究」をはめ込めばうまくいく、というのであれば、法学はいらないわけです。もしそうならば、実証研究ができない法学者は転職をしなければならないはずです。すこし厳しい言い方になるかもしれないのですが、「息苦しいから」とか「できないから」、あるいは「一部の人しかやっていないから」という理由では実証研究以外の手法を用いることを正当化できないでしょう。伊藤先生が、藤田先生の示される道だけが私法学の生き残る道ではないとおっしゃっていることは、藤田先生の問いにどのような解答を示すのかということを真剣に考えなければならない「我々」のなかに、実は伊藤先生も含まれているということを意味しているのではないでしょうか。

そこで、もしこの問いに対して、「いえいえ、実証研究ではない手法を用いた研究には意味があるんですよ」というのならば、その根拠を示さなければならないはずです。そして、それは「経済学」だけではなく、ほかの学問領域に対しても説得力をもちうるものでなければならないはずです。裏を返せば、経済学に限定することなく、哲学、社会学経営学や自然科学までを含めた他の学問領域のそれぞれと「法学」はどのように関連するのか、という問題に対して解答を示さないと、経済学ですら適切に法学の議論の中に取り込むことができないといえるのではないでしょうか。

藤田先生のコメントは、そのような問いに対する一つの解答となりえているのだと思います、が、「実証」の名のもとに行われている作業は、人文・社会・自然科学におけるの各学問領域ごとにかなりの違いがあるわけで、しかも「実証」をその手法としない学問領域もあるわけで、そのなかでどの「研究成果」を選択すれば正当化されるのか、あるいはどれとどれをどのように組み合わせれば正当化されたこととなるのか、というところについては、別個の何らかの知的作業が必要になるのだとと思います。それは、藤田先生のコメントの中でも、「政策」あるいは「競争」という形で射程が絞られている、というところで行われている作業なのだと思います。そのあたりに、じつは(私)法学の生き残るもう一つの道が存在していると考えています(生き残る道はこれ以外にもいくつでもあっていいんですが)。

結局は「禅問答」を含めて法学がやっていることは何なのかという問いに対して、法学以外の学問を修めている方々に理解可能な形で答える必要がある。そして、その問いに答えられないのであれば、「法学」は誰からも認められなくなっていき、消滅していく運命にあるのでしょう。本当に要らないのであれば消えてしまってかまわないと思うのですが、少なくとも10年と少し研究をしてみて、法学は社会から必要とされている、そして他の学問領域とは異なる重要な責務を担っている、と考えています。ということで、前述の問いに答える努力を真摯に行う責務が法学研究者それぞれにあるのでしょう*1

ちなみに、吉田先生の最後の包括回答のなかで、森田先生の質問に対して、来栖先生のフィクション論を引いたところは、以上のような状況のなかでの吉田先生なりの解答として捉えうると思います。時間の関係でかなり駆け足だったので素気なく感じられはしますが、少なくとも「まともに答えられていない」とばっさり切り捨てられるようなものではなく、しっかりとした検討を行うに値する内容なのだと思います。実証研究とは、仮説をたてその実在を問う、という営みであるのでしょう。それに対して、フィクションは、任意の、意識的な実在からの遊離であり、それ自体が実在であることを求めない、とされています*2。このようなフィクションが法学において意味をもちうるか否か、そして「本音」として位置づけることができるか否か、を考察することは、前述の「法学のやっていることは何か」という問いに対する考察ともなる、といえるのではないでしょうか。

おまけ

一応、今現在のところの私なりにこんな問題意識をあわせて書いた論文にいろいろくっつけたものが、今度本になります*3私法学のメインストリームからまったく外れていろいろな隙間に向かっているという内容なのですが、そしてなんだか宣伝につかってしまうようで申し訳ないんですが、もし、ご興味を持っていただけたなら、出版後に改めて宣伝に伺いますので、お読みいただければ幸いです。

*1:そういうことを問わないですんでいた時代は幸せな時代だったのかもしれないですが、少なくとも私にはその時代は面白いと思えなかったでしょうから別の学問に行っていたと思います。

*2:来栖三郎『法とフィクション』6頁(東京大学出版会、1999年)。

*3:たぶん、三校までいっているので、やっぱりやめたとは言われないはず、、、