我々の仕事に「研究」が含まれていないことを再確認したこと

すさんだ心に朗報が届くと癒されますねぇ>Kaffeepauseさん
でも、まだ一回の表をなんとか無失点で切り抜けてホッとしている、という感じなのかもしれないですね。研究に集中できるという時間はとてもとても貴重なものですから、一球一打を大事にしていってください*1

さて、振り返れば仕事の山々のはるか向こうに微かに見える先週末、私法学会に行ってきたわけです。いろいろと勉強をさせていただいたわけですが(建前)、一番おもしろかった考えさせていただいたのが、初日のシンポジウムの最後の森田果先生のコメントだったわけで、そこで示された「本音」と「建前」について、ちょっと考えてみたりしました。そのコメントは、うろ覚えなんですが、たしか、こんな内容。

結局、民法学の議論としてやられていることは独自の排他的な理屈に基づく「建前」であって、「本音」ではないんじゃないですか。「建前」を用いることで、民法学者が競争減殺的な効果を享受できることはわかるけれども、やっぱりちゃんと「本音」で語ることが必要なんじゃないですか。

で、おそらく、言わんとすることは以下の櫻井敬子先生の引用している話と同じなんじゃないか、と思っています。

 遠藤博也教授は、歴史に残る名著『計画行政法』(学陽書房・1976年)のなかで、若い頃、法解釈論と立法政策論を混同するごときは「法学のイロハもわきまえない大変な誤り」とされていたことを述懐し、しかし、「政策と無縁の顔をした法解釈論」が実は「一面的で素朴極まりない政策論」を前提としたものが少なくないこと、法律は「超越的な国家意思の表現」などではなく「政策の手段であり道具のひとつ」であって、現代国家における公益は「創造的活動を通じて形成される」ものであり、「具体的状況に依存する、複雑困難な利益考量」が必要であると説く。そして、従来の行政法学が現代的課題を扱う方法論を持ち合わせず、「伝統的行政法学を墨守している潮流」が、たとえば宅地開発指導要領の内容の合理化に役立つものを何一つ出せず、かりに地方公共団体から相談を受けたとしても、行政法学者のなしうる答えは、あれこれ問題を指摘したあげくに、「法的な拘束力のない行政指導だからいいのじゃないですか。」という程度の消極的なものに過ぎないことを嘆かれた。

櫻井敬子「書評 福井秀夫著『司法政策の法と経済学』」自研83巻4号137頁(2007年)

もし、この理解でよければ、これらの指摘の源となっているであろう現状認識自体には異論はないです。表現の仕方にイラッときたか否かは別として、民法を研究対象としている人のなかでも同意する人は珍しくはないんじゃないかなぁと思うんですがどうでしょう*2

ただ、本当の問題は、その先にある「じゃあどうするの」ってところにあるんじゃないか、と思っています。指摘をするだけにとどめるだけではせっかくの発言のおもしろさ意義も減殺されるのではないかということです。こんな意識から、上述の指摘については少なくとも次の二つの疑問に答えられる理論枠組を提示する必要があるんじゃないかなぁ、と思ってます。

「本音」の部分には、一体何が入るのか?

一つ目の疑問は、「本音」の部分には一体何が入るのか?というものです。現在の議論状況に鑑みれば、「経済学」が最有力候補に挙げられそうなんですが、はたしてそれでよいのか、っていうかそれだけでよいのか、ということが問題になります。仮にそれじゃだめ、ってことになると、本音の部分に何が入るのかが示される必要がありますし、それだけじゃだめ、ってことになったら、こんどは、本音の内部にどの学問領域の知見を入れることができて、その複数の学問領域の知見間での調整をどう図るのかが示される必要があるということになるでしょう。
とりわけ、これまで民法では哲学やら思想やらというものをベースに理論が組み立てられてきたわけなので、その辺はどのように扱われるのか、ということが明らかにされる必要があるでしょうし、そもそも哲学やら経済学やらがなんで「本音」に入りうるのか、ということも正当化されないといけないんでしょう。でもどうやってこれらを法学的に正当化するんでしょ?

「本音」と「建前」という表現が果たして適切か?

もうひとつは、「建前」には意味がないのか、ということです。この文脈では、「本音」という言葉には、「口に出しては言えない(言うことがはばかられる)本心」という意味が、「建前」という言葉には「表向きの基本方針」という意味が、それぞれ当てはまりそうです*3
で、前述の森田発言&櫻井論文を私なりに勝手に解釈してしまうと、「本音」=「政策論を含めた価値判断」、「建前」=「法的思考・専門用語・体系整合性などを基礎に置く法解釈論」となるのかなぁと思っています。もし違ったらこの後の話は全て吹っ飛びます。
で、疑問は、はたして「建前」には何の意味もないのか、というものです。「本音」を表に出すことは重要だけれども、それだけでいいのあなぁという疑問です。ちなみに、櫻井敬子先生は、こんなこともおっしゃっています。

法治国家のもとにおける法とは何かを突き詰めていくと、少なくともそれは経済合理性ではまったく割り切れない何物かということになろう。それは、ある意味で人間の存在性そのものに関わる問題ともいえるが、法治国家を支える究極の根拠は社会構成員の相違という他なく、種々の規範、倫理、宗教、歴史、風俗、情緒、感覚、本能そうしたものの総体によって構成される「皆が良いと思うこと」と表現するしかない。法学は現実社会の混沌をそのまま関心対象とする。具体的な政策論の場面においてすら、現実の人間の行動は計り知れない。経済学の守備範囲を、学問として、あるいは政策論の場面で、どのように自己限定するのか、経済学の自己認識を知りたいものである。いたずらに法学を「非科学的」と見下すことなく、国民の大きな便益を目指し、法学と経済学の建設的な関係を構築するに当たり、省略不能のプロセスと考える。

前掲論文145頁

となると、「建前」にも実質的な存在意義がありそうな気がするわけです。そうすると、「建前」という用語法は、感情的な刺激を与えるという意味で効果があったのかもしれないけれども、実際の問題を把握するに当たってはあんまり適切じゃないんじゃないのかなぁ、という気がしてます。

で、ここからは我田引水になるのですが、

結局、日本法体系全体の構造を、個別の法領域における実体法理論が相互に矛盾することなく整合的に説明する、しかも、それは他の学問領域に開かれた形で行う、という試みが必要なのではないか、と思っているわけです。まずもって、法学って一体何をやっているのかを、自らの専門領域(民法とか商法とか行政法とかとかとか)に限定しないかたちで語るための枠組みを構築する必要があるのではないかと。それによって、自らの専門領域の法学上の立ち位置を確認することができるし、さらに他の法領域との関係を把握することも可能になる。さらには、そんな枠組みのうえに、法学以外の学問領域の知見をのっけることによって、法学との関係のみならず、法学以外の学問領域同士の関係も明確になってくるんじゃないかなぁ、とも思っているわけです。「経済学の守備範囲を、学問として、あるいは政策論の場面で、どのように自己限定するのか」という問題は、すくなくとも法規範として語る場面においては他の学問領域の内在的課題としての「自己限定」ではないのであって、そんな各個別の学問領域の限定ないし相互の調整をおこなう枠組みを提供することこそ「法学」の責務なのではないでしょうか。

さらに我田引水がひどくなっていきますが、その一つの出発点に位置づけられるのか、「民法」と「憲法」の関係なんじゃないかなぁ、と思っているわけです。「社会」における規範をなぜ「国家」が実現するのか、あるいはなぜその規範に「国家」が介入するのか、という問題意識から見て、それぞれの基本法とされるこの二つの法の関係が、そしてそれを基礎に置いた日本法体系における各個別の法領域間の関係が、それぞれ明確に示されなければ「っテいうか法学研究ってサぁ〜いらなくネ?*4」という話にちゃんと答えられないんじゃないかなぁということです。

思っているわけです、の最後は、そんな話を本にするとき付け加えるつもり、ってことになります。

でも、今現在、研究に使える時間なんかこれぽっちもないから何にも進んでないんだよぉ〜という、このエントリで最も書きたかったことを書いておしまい。

*1:こういうのを老婆心というのかなぁ、、、っていうかこんなことをいうってことは歳をとったってことなのかなぁ、、、

*2:っていうか、そもそも私の場合は、研究内容を「民法」と性質決定してもらえないんで、民法の研究者としてカウントされませんねそうですね。つい先日も、私の大学院時代の指導教官は行政法の先生だと思っていた、とのお言葉を頂戴いたしました。。。

*3:それぞれは、『新明解国語辞典(第五版)』から引っ張ってきました。

*4:マーク・ラムザイヤー『法と経済学−日本法の経済分析』168-170頁(弘文堂、1990年)を女子高生風味で。