肝臓が悲鳴を上げているということ

新年になって10日以上もたって、ようやく新しい気分で仕事をしよう、なんて思い始めた私はだめですねそうですね。しかし、振り返ってみれば、昨年ってあったの、というぐらい駆け足で通り過ぎていった気がしてしまう。時間泥棒に盗まれた時間はとりもどせないのかねぇ、モモ。とまぁ、とにかくなんだかわからないけれども忙しかった。今年は、なんとか新しい年度が始まるまでに色々にけりをつけて、新年度には、すこしゆとりをもてるように、したいなぁ。今年の目標は、一月に一回美術館に行く&二月に一回クラシックのコンサートかジャズのライブに行く、ってことで。
もひとつ、今年の目標は、とにかく本を読む、ということ。昨年まで、勤め始めてから本当に本を読んでいない。そして、本を読む大事さを思い起こさせてくれたのが、正月休みに読んだこの本。

デザインのデザイン

デザインのデザイン

ハッとした部分を二つほど引用。

 何かをわかるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ、知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいてみることが、何かをもう少し深く認識することに繋がる。たとえば、ここにコップがひとつあるとしよう。あなたはこのコップについて分かっているかもしれない。しかしひとたび「コップをデザインしてください」と言われたらどうだろう。デザインすべき対象としてコップがあなたに示されたとたん、どんなコップにしようかと、あなたはコップについて少し分からなくなる。さらにコップから皿まで、微妙に深さの異なるガラスの容れ物が何十もあなたの目の前に一列に並べられる。グラデーションをなすその容器の中で、どこからがコップでどこからが皿であるか、その境界線を示すように言われたらどうだろうか。さまざまな深さの異なる容器の前で、あなたはとまどうだろう。こうしてあなたはコップについてまた少し分からなくなる。しかしコップについて分からなくなったあなたは、以前よりコップに対する認識が後退したわけではない。むしろその逆である。何も意識しないでそれをただコップと呼んでいたときよりも、一層注意深くそれについて考えるようになった。よりリアルにコップを感じ取ることができるようになった。
 机の上で軽くほうづえをつくだけで世界は違って見える。物の見方や感じ方は無数にあるのだ。その無数の見方や感じ方を日常のものやコミュニケーションに意図的に振り向けていくことがデザインである。
原研哉『デザインのデザイン』まえがき1-2頁(岩波書店、2003年)

「コップ」や「皿」のところに民法憲法行政法会社法、刑法、民事訴訟法などなどを入れてみると、もっといえば、法学、経済学、、、を入れてみると、そう思うと、やりたかったことの一部がすっと言葉になっている気がする。もう少し早くこの本を読んでいれば、論文を書くときに、そしてそれを本にするときに、もう少し自分の持っているイメージを感じやすくなっていて、そしてそれを言葉にまとめやすかったんだろうなぁ。もう一つ、同じ本から。

 一方、テクノロジーがもたらす新たな状況だけではなく、むしろ見慣れた日常の中に無数のデザインの可能性が眠っていることに、今日のデザイナーは気づきはじめている。新奇なものを作り出すだけが創造性ではない。見慣れたものを未知なるものとして再発見できる感性も同じく創造性である。すでに手にしていながらその価値に気付かないである膨大な文化の蓄積とともに僕らは生きている。それらを未使用の資源として活用できる能力は、無から有を生み出すのと同様に創造的である。僕らの足下には巨大な鉱脈が手つかずまま埋もれている。整数に対する小数のように、物の見方は無限にあり、そのほとんどはまだ発見されていない。それらを目覚めさせ、活性させることが「認識を肥やす」ことであり、ものと人間の関係を豊かにすることに繋がる。形や素材の斬新さで驚かせるのではなく、平凡に見える生活の隙間からしなやかで驚くべき発想を次々に取り出す独創性こそがデザインである。モダニズムの遺産を受け継ぎ、新たな世紀を担っていくデザイナーたちは、そういう部分に徐々に意識を通わせはじめているのである。
前掲書23-24頁
強調は引用者

私がやりたいと思っていることは、「見慣れたものを未知なるものとして再発見すること」、まさにこういうことなんだなぁ、と実感。新しいことを学べるというだけでなく、自分自身にことばや形を与えてくれるんだから、もっと本を読まないとなぁ、ということで今年の目標に設定。でも、読んでない法学系の本も積まれているところが痛い。。。