水周りがきれいになるとなにか気分が良い

今月は特に忙しく、ようやく先月でた雑誌なんかを読んでいるのページをめくるという動作をしているわけです。そんななか、たまにはまじめな話でも書いてみようかなぁ、ということで、内容についてはちゃんと論文にしなきゃならんのは重々承知しておりますが、気になったことをメモ書き程度に。少し長いですが。

浦川先生のご発言 
 …。そこで、山本さんの始めのお話に関連する素朴な質問ですが、国家に基本権保護義務があることは了解可能ですが、従来の説明の仕方ですと、次のようになるのではないでしょうか。すなわち、私人の自力救済は禁止される一方で、法的紛争については裁判を受ける権利を憲法32条は保障している。
 そして、裁判を実現する場である司法の場では、憲法76条3項は、裁判官の独立とともに、裁判官は憲法及び法律に拘束されるという司法のあり方について規定している。これは裁判官に現行憲法の価値観とその下に成立した法律に従って判断せよということであり、結局は憲法の価値観と憲法が国民に保障した権利が紛争解決の基準として反映されてくる。このような司法における憲法的価値観や憲法の保障する権利の実現についての理解と基本権保護義務と言う考え方とどこが違うのか。あえて言うならば、基本権保護と言うけれど、必ずしも不法行為のみならず、すべての法的紛争処理に関しては同じような構造があるのではないでしょうか。
山本先生のご発言
 まず確認しておく必要があるのは、浦川さんのようなご理解が、憲法学では、少なくとも伝統的にはそう当然なものではなかったということです。憲法が保障している基本的人権は、あくまでも国家からの自由、国家に対する防御権であって、国家はそれを侵害してはいけない。しかし、私人間に関する事柄は、憲法は直接的には定めていない。つまり、私法に関する事柄について憲法から直接何か出てくるわけではないと一般に理解されていたわけです。
 だからこそ、先ほどご紹介しましたように、憲法の私人間適用と言う問題がことさら議論されなければならなかったわけです。このようななかで、従来の伝統的な憲法学説は、基本的に間接適用説を採用して、憲法は直接適用されないけれども、私法の規定を適用する際に憲法の価値をいわば流入させて解釈するというかたちで対処をしようとしてきたわけです。浦川さんがおっしゃっているのは、このような理解でいけるのではないかということかもしれません。
 しかし、本当にそうなのか。なぜ私法規定を解釈する際に憲法の価値を考慮しなければならないのかという理由を突き詰めていくと、基本権が私人間で侵害される場合、つまり国が基本権を侵害するのではなくて他の私人が侵害する場合でも、国家がそれを保護する義務を負っているからではないか。だからこそ、その保護を実現するために私法の規定を解釈する必要が出てくるのではないか。こういう説明をしようとしたのが基本権保護義務論です。
 それはむしろ当たり前のことではないかといわれますと、私としてはほっとするわけです。しかし、憲法学では、このようなかたちで基本権の射程を広げて理解していくと、国家が基本権に介入する口実を与えることになって、かえって危ないのではないかという警戒感がかなり強いように思います。
浦川道太郎=窪田充見=手島豊=山本敬三=後藤巻則「(座談会)不法行為法の新時代を語る」法時78巻8号12頁〔浦川発言、山本発言〕(2006年)

ここで思ったことが、民法学的な思考様式では当たり前のことが、憲法学的な思考様式で当たり前かどうかを考えるべきなのではないか、ということです。私法上の権利があれば、裁判所に訴え出れば当然に国家が実現してくれる、というのは民法の領域では明示的に語る必要のないほどのもっとも基本的な前提となっているので、上に引用したご発言にしろ、その基礎となっている基本権保護義務論(これで民法を基礎づけるかどうかは別にして)にしろ、ものすごく受け入れられやすいのだろうと思っています*1。ただ、ここに罠があるのではないかと。例えば、基本権保護義務論について、国家が基本権に介入する口実を与えることになるという運動論的な警戒感もあるのでしょうが、やはり、近代的意味における憲法を基本に据えている憲法学においては、基礎理論のレベルで「それって当たり前です」と言う議論では済まされれない極めて重要な理論的問題と捉えられているのではないかと思うわけです。一方では軽く考えていることが、他方では極めて深刻な問題をはらんでしまうということなのではないかと。
そして、仮に、この分析が当たっているとすれば、民法学において引用文のようなかたちで議論を進めていってしまうということは、いずれ憲法学的憲法理論のほかに、それとは異なる民法学的憲法理論を認めしまって、それに基づいて民法学で議論をすすめていく、ということなってしまうのではないか、と思うわけです。そして、これを認めるとなると、例えば、民法学的民法理論とは異なる憲法学的民法理論や、行政法学的行政法理論とは異なる憲法学的行政法理論や、憲法学的憲法理論とは異なる行政法学的憲法理論などを認める、ということになってしまい、刑法、商法、訴訟法、さらには労働法、消費者法、環境法、競争法などなどなどと考えていくと、そりゃもう収拾つかなくなっちゃうなんてことになりゃしないかと*2。比較法研究においては、対象となる法制度をその外国法の体系のなかで内在的に理解することの重要性がこれでもかと強調されるなか、日本法のなかでの他の法領域に関する議論についても、やはりその対象となる法領域における内在的理解の重要性は強調されてもいいのではないかと思っている私としては、ここはみんな仲良くしようよ、ということで、お互いにお互いを尊重し、相互理解を深めて、互いに矛盾なく付き合えるように議論をしていく方向が望ましいのではないか、と極めて日本人的な発想をしているのですが。。。
例えば、この発言は「憲法による拘束は当然か」という小見出しのなかに位置づけられていまし、発言のなかにも「拘束」と言う単語がでてきていますが、この問題を論じるうえでは、「拘束」と言う言葉のあいまいさをほどいておく必要があるのではないかと。「〜してはならない」というのも拘束ですし、「〜しなければならない」というのもまた拘束です。というなかでは、憲法76条3項にいう裁判官に対する憲法の拘束は、(憲法学的)憲法理論からいけば「〜してはならない」という方の拘束と読むのが素直なのではないかと思っているわけです。
まあ、そんな大きいことをいいながら、議論の土台となる基礎理論を作ろうとしてみているもののそれがちゃんとできているのかどうかというところに極めて大きな疑問符をつけざるを得ない自分が切ないですねぇ、、、

*1:一応私も民法を研究しているつもりですし。

*2:そして、こんなことになるぐらいなら、すっぱりきっぱり峻別しておいた方が良かったのではないの、なんていう議論にならないのかなぁ、という未来予想図はないですよねぇ、、、