現実から逃げても妄想にとどめをさされる切なさ。

自生的秩序―F.A.ハイエクの法理論とその基礎
3月の段階で関連を指摘していただいたにもかかわらず、怠惰な私は読んでいなかったのですが(申し訳ございません)、先週末、とある地方都市に学務で出張に放り出された際、電車に揺られながら読み初めて、ようやく今日、読み終わりました。
読みながら切なくなったのは、結局、私は、無知と妄想と早とちりの沼地を駆け巡っていただけなんだなぁと。ほんとに勉強不足で、よくもまああんな論文を堂々と公表しているものだと。でも、もし、ハイエクの存在を知っていたら、自分の考えていることを言語化することはあきらめていたかと。
気を取り直して、今後の課題ということになりますと、ちゃんとハイエクを勉強して*1、自分の書いたものとの異同というか、関係を何らかの形で考えないといけない、ということがまず出てくるわけですが、それ以上に、面白いと思っているのが、私の論文について、ハイエクとの繋がりを指摘してくださった方と、ケルゼンを思い浮かべたとおっしゃってくださった方とがいる、ということです。さらに、もちろんたまたまなのかもしれないのですが、ハイエクは、公法を研究なさっている方から、ケルゼンは私法を研究なさっている方から、というところに公法学者と私法学者のあいだの何か見えない意識の差のようなものがあるのではないか、ということまで結びつけるのは、また無知と妄想と早とちりの沼地にはいりこんでいる気がします。。。
しかし、ハイエクや、ケルゼン以外にも、関連する基礎理論がたくさん存在しているのだろうなぁ、と思うと気が遠くなります。さらに、考えてみれば、複数の法領域を、それに含まれる個別の理論を含めて、できる限り矛盾なく繫ぎあわせるための理論的枠組の構築は、基礎法学の本来の目的の一つということになるのでしょうから、そもそも議論がなされていない方がおかしい、ということになるのではないかと。一応、自分なりにはいろいろ調べてみたつもりなんですが、、、

*1:どこから時間をひねり出すのかはおいおい考えるといたしまして。