私はどっちの思考様式も身につけてません(きっぱり)。

dpiさんの法律家の思考と行政官の思考というエントリを拝見しまして、行政法論・官僚論のようになっているところで、本筋から外れたとんちんかんなことになりそうな気がするのですが、「思考様式」という視点から抽象化した場合、「法律家」と「行政官」、あるいは「民事法的」と「行政法的」とで分けることが適切なのだろうか、という疑問をもってしまいまして。私に勘違いや誤解があれば直していただければ幸いです。
dpiさんのおっしゃる「二元的・事後的・包摂型」思考様式が、ある事案を1対1の主体関係に分解して、それぞれの関係について適用される規範を探し出してきてあてはめるという思考様式を指すのだとすれば、この思考様式に基づいて考えるということの意味は、単に既存の理論・法制度のもとで定められている規範に基づいて結論を導き出す、という意味だけではなく、当該事案が法的に一体どのように分析されるのかを明らかにする、という意味があるのではないかと考えています。そうだとすると、行政官であっても、「二元的・事後的・包摂型」思考様式を、事案を分析する手法として(唯一のものではないにしても)用いる必要性があるのではないのかな、と思ってしまいました*1。また、適用のことを考えずに立案するというのもなんだかな、ということでここにも一定の必要性があるのではとも*2
他方、「多元的・事前的・裁量型」の思考様式が、民事法に携わる法律家*3に求められないのか、というと、少なくとも私はそうは思っていないわけでして。民事法の源泉をどこに求めるかによって話は異なってくると思いますが*4、民事法の制定を社会における規範の制定法化と捉える場合にしろ、それを国家による介入と捉える場合にしろ、いずれにしろ法制度を作るにあたっては「多元的・事前的・裁量型」な思考様式が一定程度必要になるのではないかと思います*5
それじゃあ、「二元的・事後的・包摂型」と「多元的・事前的・裁量型」とで何が違うのか、というと、法を適用する段階での思考様式(前者)と法制度を作る段階での思考様式(後者)の違いということなのではないのかなと思っています。そして、法制度を適用するにあたっても、法制度を創るにあたっても、この二つの思考様式のいずれもを身につけておくことが必要になるのではないかと。裁判官が「多元的・事前的・裁量型」思考様式を身につけていなければ、法の制定過程を理解できないために、法解釈を行うことも、当該法制度の正当性・妥当性の判断もできないことになってしまうのではないでしょうか。他方、法制度を作るという段階では、前述の分析手法という意味を超えて、適用したときのことも考えて立案する方が望ましいでしょうから、やはり両方の思考様式を身につけておく必要があるとも思われるのです。
むろん、法制度を作る段階においても、それを適用する段階においても考慮を行うことの求められる実体法的な根拠・理論・既存の法制度などが違うわけで、実際に行われる議論の内容は民事法の領域と行政法の領域でもちろん異なるということはいうまでもないので、そのレベルでは、民事法と行政法を分けて考える、ということが求められるでしょうが*6、「思考様式」という視点から抽象化する場合には、民事法と行政法を区別する必要はないんじゃないかなと思っています。ということで、実は、この二つの思考様式を適切に使いこなすことが、行政官にとっても、民事法に携わる法律家にとっても、必須なのではないかと思っているのですが、いかがでしょうか?*7

*1:実際のところを知らないので100%想像です。間違っていればご指摘いただければ幸いです。

*2:ただし「1対1に分解」という部分に関しては議論のあるところだとは思いますが

*3:といっても裁判官・弁護士・法学者のそれぞれで職責に応じて異なる立場に立つと思いますが。

*4:とりわけ「介入」なり「国家による保護」という視点がどのような意味を持つのか、ということに関しては別個の議論が必要になりますが

*5:とはいえ、「裁量」という部分が立法による法制度の作成に当たってどのように位置づけられるのか、ということに関してはまたまた別個の議論が必要になると思いますが

*6:dpiさんのおっしゃる「行政官特有の思考」はこのレベルに吸収されないものなのでしょうか?

*7:これまで「民事法的」「行政法的」という冠がついてきたのは、ここ百年ほど、たまたま民事法で立法によって法制度が大きく改められる、ということがあまりなく、後者の思考様式の持つ意味が民法でクローズアップされてこなかったために、民事法と行政法の差異のように感じられてきただけなのではないのかなと。