繋がりのない他者に思いをはせるということ

asahi.comより

宝塚線事故で入院の大学生、377日ぶりに退院
 JR宝塚線福知山線)の脱線事故で負傷し、入院生活を続けていた大阪府池田市同志社大商学部3年、岡崎愛子さん(20)が7日、事故から377日ぶりに退院した。同事故で乗客168人が入院したが、岡崎さんの退院により全員が退院した。
 岡崎さんは大学2年だった昨年4月25日、通学のために乗った宝塚線快速電車の1両目で事故に遭った。頸椎(けいつい)を損傷し、両足にまひが残った。
 退院前の今月6日には、大阪府泉大津市内であった「フリスビードッグ大会」に出場。岡崎さんが投げたディスクを、愛犬が見事にキャッチした。
 岡崎さんは今春、3年に進級した。今後は家族ぐるみで介護し、車いすを使う岡崎さんの学生生活を支援する。
 愛子さんの父、定司さん(52)は「長いようで、あっという間の1年でした。娘が自分なりに、自分のやっていけることで、社会参加できれば、と思っています」と話した。
http://www.asahi.com/national/update/0507/OSK200605070046.html

この電車に乗っていた人が身近にいない人にとって、この「全員が退院した」というニュースは「終」という意味に近い「一つの節目」と感じられるのだと思う。少なくとも、最初は私はそう感じてしまった。しかし、事故にあい負傷した彼女/彼にとって、退院は「始」という意味に近い、しかも大きな不安を抱えた「一つの節目」のはずである*1。この事故に限らず、他のすべての事件・事故に同じことがいえるのだと思う*2。とはいえ、「だからどうした、それを認識したから、どうなるのか、なにができるのか」、といわれると、「いや、えーっと」と詰まってしまうのだけれど。このギャップの存在を認識するということ自体に、何がしかの意味があると思っているのは、偽善なのかなぁ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/my_T/20060425/p1

*2:少し違うけど、宮部みゆきの『模倣犯』の最後で、「解決」という言葉をつかって、被害者の遺族とのギャップが表現されていたような気がする。