忙しくても心は亡くさないようにしよう

「亡くなられた方々に焦点が集まってしまうというのはわかるけれど、負傷者のことについても目を向けてほしい。」
「軽症者のなかには、ちょっとした見舞金が支払われておしまい、という人もいる。事故にあって精神的なショックを受けたことには違いがないのに。」
「補償について、まだ考えることができない。けれど、補償を受けたあと、一体自分の生活がどうなっていくのかは考えてしまう。それはとても不安。」
「心のケアといっても、カウンセラーは、プラスのことしか言わないと知ってしまっているから。」
「被害者として、事故について、そして自分について話したくても話せない人がいる。話を聞いてあげてほしい。話したくなければ自分からそう言うと思う。思っていることを話せないというのは、とてもつらい。」
JR福知山線事故から1年。先日、1年近く入院していた被害者の方の話を聞く機会があった。もちろん被害者の方々にも様々な考え方があって、彼の言っていることがすべての被害者の方にあてはまる、というわけではないということを承知のうえで、ここに全てではないけれども書いてみた。
そして、彼の話を聞いて、法律学の議論が、彼の求めるものをどこまで汲み取れるのだろうか、ということについても考えることになった*1。全てを汲み取りきれないのだろうけれど、それでも、法律(学)のできること、そしてできたはずのことはたくさんあるのだと思う。自分のやっていることが、それにつながっているか、というととても心もとないけれど。

*1:法律の話ではないけれど、「心のケア」といって「専門家」を派遣してその費用を出せば解決になる、とおもってしまっていた自分に気づかされて、かなり恥ずかしかった。何が必要かは、他人が決める筋合いのものではないはずなのに。