覚書→景観利益

年に一回ぐらいはいいかな、ということで、不真面目な自分にうそをついて、国立マンション訴訟についての最高裁判決(大評判のPDFファイルです)について書いてみようかなと。

景観利益の位置づけ

都市の景観は、良好な風景として、人々の歴史的または文化的環境を形作り、豊かな生活環境を構成する場合には、客観的価値を有するものというべきである。
・・・。
そうすると、良好な景観に近接する地域内に居住し、その恵沢を日常的に享受しているものは、良好な景観が有する客観的な価値の侵害に対して密接な利害関係を有するものというべきであり、これらの者が有す良好な景観の恵沢を享受する利益(以下「景観利益」という。)は、法律上保護に値するものと解するのが相当である。
判決文(PDFファイル)9-10頁

景観利益を私法上保護される利益とするかどうか、というところについて、最高裁としては、これについて肯定の見解を取った、ということに。
気になる点は次の二つ。
一つは、この定義では、景観利益が「景観」そのものではなく「景観を享受する利益」ということになる。これは紛争の実体を的確に捉えているといえるのであろうか。これについては、またあとで。
もう一つは、この景観利益の定義づけからいくと、ただ近接地に居住している、というだけで、景観の客観的価値の侵害と密接な利害関係があるとしているように読める。問題となっている景観の形成にコミットしているかいないか、というところには触れられていない。景観の形成にコミットしているか否かで区別しなくて良いのだろうか*1。やはりこの区別は重要だと思うのだけれども*2。これまでの議論との関係を勉強しなおさないといけないなぁ。

景観権?

もっとも、この景観利益の内容は、景観の性質、態様などによって異なりうるものであるし、社会の変化に伴って変化する可能性のあるものでもあるところ、現時点においては、私法上の権利といいうるような明確な実体を有するものとは認められず、景観利益を越えて「景観権」という権利性を有するものを認めることはできない
判決文(PDFファイル)10頁

原告の主張と組み合わせて考えれば、「権利」といえなければ差止めは認められない、という繋がりが推測される*3。かりに、この推測があっていれば、なぜ、権利性を有していれば差し止めが認められるのか、という疑問がでてくる。
さらに、何をどうすれば「権利」となるのか、ということが明らかでない。この判決文からいくと、「私法上の権利」というためには、「私法上の権利といいうるような明確な実体」が必要とされる、ということになるのだろうが、「私法上の権利といいうるような明確な実体」とはなんなのか。どのような事柄について、どの程度明らかにすればよいのだろうか。
もっといえば、「権利」とはなんなのだろうか。法学全体に関わる法哲学的な深い議論も重要ではあるが、それとともに民法学として「権利」をどのように位置づけるのか、というどちらかといえば浅く軽い技術的な、しかし私人間の紛争を分析するうえでは重要な態度決定を民法学においてしておく必要があるのではないか。
この事案が民法学に突きつけているのは、こういった根本に関わる部分を言語化しきれていないという極めて切ない事実なのかもしれない。

不法行為と景観利益

ところで、民法上の不法行為は、私法上の権利が侵害された場合だけではなく、法律上保護される利益が侵害された場合にも成立しうるものである(民法709条)が、本件におけるように建物の建築が第三者に対する関係において景観利益の違法な侵害となるかどうかは、被侵害利益である景観利益の性質と内容、当該景観の所在地の地域環境、侵害行為の態様、程度、侵害の経過等を総合的に考察して判断すべきである。そして、景観利益は、これが侵害された場合に被侵害者の生活妨害や健康被害を生じさせるという性質のものではないこと景観利益の保護は、一方において当該地域における土地・建物の財産権に制限を加えることとなり、その範囲・内容などをめぐって周辺の住民相互間や財産権者との間で意見の対立が生ずることも予想されるのであるから、景観利益の保護とこれに伴う財産権などの規制は、第一次的には、民主的手続により定められた行政法規や当該地域の条例等によってなされることが予定されているものということができることなどからすれば、ある行為が景観利益に対する違法な侵害に当たるといえるためには、少なくとも、その侵害行為が刑罰法規や行政法規の規制に違反するものであったり、公序良俗違反や権利の濫用に該当するものであるなど、侵害行為の態様や程度の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠くことが求められると解するのが相当である。
判決文(PDFファイル)10-11頁
太字・着色による強調は引用者による。

ここには気になる点が三つ。

赤字で強調した部分について

この部分は、本判決に示された景観利益の定義からすれば、それほど違和感は出てこない。しかし、はたしてこのような考慮要素を掲げること、そしてこのような定義で景観利益を捉えることは、この紛争を的確に分析しているといえるのであろうか。現在の法理論で捉えられるかどうかを別とすれば、おそらく原告がもっとも問題とし、そして被告の財産権との関係を問うたところのものは、「景観という客観的価値の実現」あるいは「景観に関して形成された地域関係」であろう。本判決の枠組では、この視角は失われることとなる。ここから、実は不法行為の枠組で、というよりはこれまでの私法理論の枠組で論じるのにふさわしくない事案なのではないか、という感想がでてくる。とはいえ、その別の枠組を示すというのが並大抵のことではない、ということは理解できる程度には勉強しているつもり*4

青字で強調した部分について

この部分については、二つほど釈然としないところがある。
一つは、範囲・内容などをめぐって周辺の住民相互間や財産権者との間で意見の対立が生ずることも予想されることは、民主的手続を経た行政法規なり条例なりに第一次性を認める根拠になるのか、という点。何らかの利益について意見の対立が生じることがすべて民主的手続を経た行政法規などに第一次性を認める根拠となるのであれば、民事法で第一次的にやってなされることが予定されることはなくなってしまうのではないか。景観利益を「客観的価値」なり「地域関係」なりと定義するのでなく、「景観の恵沢を享受する利益」といってしまった以上、このような論理を示すのであれば、せめてもう少し丁寧な説明が必要になると思う。
もう一つは、景観利益の性質から景観権を否定している部分と、本判決でいう景観利益の保護とこれに伴う財産権などの規制が第一次的に行政法規などによってなされることが予定されているとすることは、矛盾しているのではないか、という点。本判決では、「景観利益の内容は、景観の性質、態様などによって異なり得るものであるし、社会の変化に伴って変化する可能性」があるから、権利性が否定されている。有力な見解によれば、行政法的規律は、「常に自らの行為を正当化せねばならないため、柔軟に行動するのに限界がある。他方、行政庁は公共善を実現する権能・責任を有するから、行政法的規律は包括的・持続的制御に適している」とされる*5。「性質、態様によって異なり得る」ことや、「社会の変化に伴って変化する可能性」からは、「柔軟に行動すること」が求められよう。さらに、景観利益を「景観の恵沢を享受する利益」としてしまったため、「公共善を実現する権能・責任」とのつながりも曖昧になってしまっている。本判決で示されている景観利益の性質・態様からみると、むしろ、民事法的規律に見られる「繊細で状況反応的な制御*6」に親和的なのではないか。

黒字で強調した部分について

不法行為における違法性についての相関関係理論からすれば、違和感はないように思える。もちろん、不法行為の違法性(あるいは権利侵害)に関しては山ほど迷宮のような議論があって、そこからの検討も必要なのだと思うが、それとは別個に、現在、公序良俗論であるとか、公法と私法の関係であるとか、について議論がすすんでいるなかで、単純に「刑罰法規や行政法規の規制に違反するものであったり、公序良俗違反や権利の濫用に該当するもの」が、「侵害行為の態様や程度の面において社会的に容認された行為としての相当性を欠く」としてしまうのではなく、もう少しきめ細かく基準を立てることことができないか、という点についての検討も必要になろう。

感想めいたもの

本判決の結論の妥当性には賛否両論あると思う。それはそれとして議論を行う必要があることに異論はない。ただ、民法をやっている人間としては、結論に対する賛否を脇に置いたうえで、本判決が、現在の議論の一つの限界なのだというこということを確認しておく必要があると思う。法律学にかかわる者にとっては、本判決を終わりとするのではなく、本判決を始まりとして、このような紛争の実態に即した私法理論を提示することが求められているのではないかと*7
などというと、長い時間をかけて労力を使って裁判をした当事者の方々に、結局議論の枠組がまだできてませんでしたこれからです、なんていっていられるのはなんとおきらくな商売なんだ、と思われることは間違いないということも自覚しています。結局のところ、法律は、というよりは研究者のやることなんぞはいつも手遅れなのかもしれない。けれども、できるかぎり手遅れにならないようにという点で、さらには、これからのためにという点で、なにかしら意味があると思う。といっても、私で何ができるのか、と問われるとしょぼんとするしかないのだけれど。

おまけ

最後に、asahi.comから

国立のマンション訴訟、住民側の敗訴が確定 最高裁判決
 東京都国立市の「大学通り」沿いの14階建てマンション(高さ約44メートル)をめぐり、地元の住民が「景観が壊された」と建築主の「明和地所」(渋谷区)などを相手に、上層部の撤去などを求めた訴訟の上告審判決が30日、あった。最高裁第一小法廷(甲斐中辰夫裁判長)は、「良好な景観の恩恵を受ける利益(景観利益)は法的保護に値する」とする初めての判断を示した。だが、今回の場合は「利益への違法な侵害はない」として、住民側の上告を棄却。住民側の敗訴が確定した。
 第一小法廷は都市の景観について「歴史的、文化的環境を形作り、豊かな生活を構成する場合には客観的な価値がある」と指摘。憲法の幸福追求権をベースに地域住民には「景観利益」があると認め、各地の景観被害をめぐって住民が裁判で回復を求める道を開いた。
・・・。
http://www.asahi.com/national/update/0330/TKY200603300370.html
(太字による強調は引用者による。)

本判決の理由のどこから「憲法上の幸福追求権をベースに」景観利益が認められるということが導き出せるのか、どなたか教えてください。

*1:吉田克己先生は「既存景観享受型」と「景観共同形成型」とに分けている(判タ1120号69頁)。

*2:ただ、後述するように景観利益に対してどのような論点について何を基準として議論するのか、という意味の枠組がまだ完成していないと思うので、どのように響くかを明らかにするのは今後の課題(って書くと「やらない」っていう意味になるのか?)ということで。

*3:ただし、最高裁が明確にこういっているわけでなく、文脈を読み取れば、という程度。

*4:でも本年度の目標。結局このエントリは、来年の今日に向けて書いているみたいなものでして。。。

*5:山本隆司『行政上の主観法と法関係』323頁(有斐閣、2000年)。

*6:前掲山本323頁。

*7:判決文を読んでいないけれども、新聞報道(沖縄タイムスの記事)によれば、西表リゾート訴訟では、島の自然と文化が失われることによる「精神的な人格権の侵害」が主張されたという。自然保護ならば、民法学としても、自然保護の問題として結論を導き出すための理論的枠組を提示する必要があると思う。が、前述したようにそんなにたやすいことでないこともわかってます。でも、やってみて「やっぱりだめだったろ」といわれるのは「しょうがない」と思うけれど、やる前から「だめにきまってるだろ」といわれるのはどうも好きじゃないわけでして。