しかしフォースのない悲しさ

また、関係ない話になるのですが、自分書いたD論にしろ、その後の論文にしろ、内容はもちろんひたすら文献・判例を読み込むことによってしか形作ることはできなかった*1のですが、その構成(どの内容をどこにどれだけ配置すればいいたいことを表現できるのか)という点については、美術館や博物館で、あるいはそれに関する書物を読んで感じたことがものすごく生きている気がしていて。正直自分の書いた/書いている論文で伝えようとしているイメージは破天荒というか、普通でないというか、すきま産業というのか、というのは十分に自覚していて、それでも曲がりなりにもそのイメージを自分なりに言葉で表現し文章として並べることができたのは、絵を見たり、彫刻を見たり、陶磁器を見たり、建築を見たり、それぞれについての話を読んだり、なんていうなかで、自然と自分のイメージを伝えるためには、どのような構図のもとでどのような順序で何と何を並べると、という思考のパターンができていたおかげじゃないか、と*2
こんな風に、以前から、デザインの感覚と論文の構成を組み立てる感覚というのは、実は似ているのではないか、とも思っていて、今後読みたい本のリストのなかにはデザイン関係・色彩関係の本も並んでいるんだけれど、いつになったら読めることやら。。。

*1:って形作られているんかい!という突っ込みは的を射すぎていて痛いです。

*2:そもそもそのイメージが論理的に破綻していないか、とか、内容的に妥当か、とかとか、そんな表現じゃ伝わらんよ、とかとかとかいうところには、ここは一つ触れないでやってください。