あいかわらず理論的な話ができないので日常カテゴリで

http://www.asahi.com/national/update/1207/TKY200512070237.html

東京・小田急線高架化についての国の事業認可をめぐり、違法性の有無の判断に先立って、裁判で違法性を問える資格(原告適格)を審理していた最高裁大法廷(裁判長・町田顕長官)は7日、上告した沿線住民40人のうち、都の環境影響評価(アセスメント)の対象地域内に住む37人に原告適格を認める判決を言い渡した。「事業地内の地権者」に限ってきた過去の最高裁判例を変更。40人全員の原告適格を否定した二審判決を全面的に見直した。

 事業認可が違法かどうかの本論については今後、第一小法廷で審理される。
…。

一月ほど前、この判決が12月7日に出るというニュースが流れたとき、母親にこの意味を聞かれたので、「これってこの事業を認可したことが違法かどうか、ってことを判断するんじゃなくて、そもそもそれが違法かどうかについて誰が訴えられるのかについての判断をするんだ」といったら、母親は「へぇ、そうなの。それにしてもなんで訴えられないの?」と驚いていた。
これを聞いて考えたのは、「法律学は、日常の感覚から切り離されたところで理論をこねくり回しているからだめなんだよなぁ。おれってばなにやってんだろ。」ということではないわけでもないような気もしないでもないが、実際そこが中心ではない。
本当にここで考えたのは、日常の感覚では「なぜできないの?」という問いを立てるところでも、法律学では「なぜできるの?」に変換してそれを基礎づける理論を組み立てなければならない、というギャップ。もちろんそうする必要があるからこその問題の立て方の変換なのだが、この変換が法律(学)への敷居を高くしている一つの要因なのではないか、と思った。直観的に「できる」と感じる行為が「できない」場合、普通は「できない理由」を探すのだろう。その感覚で「できる理由」を探している法律学を見たときに、そこに違和感が出てくるというのは自然ともいえる気がする。なぜこのような問題の立て方の変換をしなければならないのか、という理由を、わかりやすく表現して伝えていくことによって、少し法律(学)を身近に感じてもらえるようになるのではないのか、というのは甘い発想かなぁ。