理論的な話じゃないので日常カテゴリで

http://www.asahi.com/national/update/1130/TKY200511300144.html

 米軍横田基地に離着陸する米軍機の騒音に苦しむ東京都と埼玉県の住民約5500人が国を相手に、夜間・早朝の飛行差し止めと、過去・将来の被害への損害賠償などを求めた「新横田基地騒音公害訴訟」の控訴審判決が30日、東京高裁であった。江見弘武裁判長は「騒音被害はがまんできる限度を超え違法」と判断。賠償額を約24億円とした一審判決を変更、国に約32億5千万円の賠償を命じた。一審が示した「騒音が問題化しているのを知りながら基地近くに引っ越した場合は慰謝料を減免する」といういわゆる「危険への接近」理論については、被害の深刻さなどを考え、適用しなかった。差し止めと将来の被害への賠償は一審同様、認めなかった。
 江見裁判長は判決理由の最後で「横田基地の騒音が最高裁で違法と判断されて久しいのに、補償制度すら設けられず、再度の提訴を余儀なくされた原告がいるのは、法治国家のありようから見て異常だ」と指摘した。
…。

この最後の指摘には強く共感。しかし、過去の損賠認容、差止と将来の損賠は認めず(おそらく差止棄却、将来の損賠却下)、という従来の流れどおりの結論しか導き出せないところに、現在の法理論の越えなければいけない壁があるということかと。といって「認めない裁判所が悪い」とは決して言えず、ちゃんと従来の法理論体系と無理なく同居できる法理論を研究者が提供できていないことのほうに問題があるのだと自戒*1
それにしても、この種の公害事件に関しては、原告の方々だけがこの裁判を仕事としていないというところにも釈然としないものを感じてしまうわけです。国側の代理人も、裁判官も、この事件を取り扱うことが仕事であり、それでお給料をもらっている。原告の代理人も、おそらく儲かってはいないと思いますが、それでもこれを仕事としている。この判決で評釈なんぞを書く研究者も仕事。でも、原告の方々の多くは、あくまでも発生した損害を求めているだけ。「32億5千万」なんて数字を出されるとすごそうだけれど、単純に5500人で割ると(実際はどういう計算になっているかわかりませんが)一人平均60万弱。この訴訟に何年かかっているのかわかりませんが、この額以外に裁判をすることから報酬も給料も出てこないわけで。
院に入って初めての研究会での報告は、道路公害の判決での判例評釈だったのですが、調べながら、どうしても釈然としなかったのが、原告だけが給料をもらっていないという上述の点と、訴え提起から20年近い年月*2が経っていたという点と、そして損害賠償は認めるのに差止は認めないという点。他にも釈然としないところはあったわけですが、それらもひっくるめて結局は根本的なところで理論的な限界が作られてしまっているからこんなことになっているんだ、などと感じて研究を進めているおかげで、すっとんだ論文を書くことになっているんだよなぁ。

*1:仮に論理的に無理のないと多数の認める理論が提示されていても裁判所がかたくなに従来の取り扱いに執着している、となったらそれは裁判所に考え直してもらわないといけないと思いますが。

*2:だったと思う。当時の自分の年齢とそれほどかわりがなかったので衝撃を受けた記憶が。