家族法を専門にやっているわけじゃないけれど。

代理出産向井亜紀さん夫妻が会見 日本国籍取得を断念
http://www.asahi.com/national/update/0411/TKY200704110293.html
 タレントの向井亜紀さん(42)が11日、米国人に代理出産してもらった双子の男児(3)との法律上の親子関係を認めなかった3月の最高裁決定の後、初めて記者会見をした。決定について「正直がっかり」と悔しさをにじませた。男児らの出生届を出すことを断念し、日本国籍は取得せずに米国籍のまま育てていくことを明らかにした。
…。
 最高裁決定後、東京法務局から「2週間以内に男児の出生届を出さないと、今後日本国籍を与える機会はない」との連絡があり、11日が期限とされたという。
 しかし、向井さん側は出生届を出さなかった。法務局が、届け出の父親欄に高田さん、母親欄に代理出産した米国人女性を記入するよう指示してきたからだ。
 指示に従って「母親」とすれば、訴えられる可能性がある。代理出産契約で、米国人女性には男児の親としての権利義務を一切負わせないよう取り決めているためだ。
 また、最高裁決定の補足意見で、法的な親子関係を成立させるための選択肢として勧められた「特別養子縁組」をするには、子の「実の親」の同意が原則必要になり、やはり契約が壁となる。「高いハードルを感じている」と嘆いた。
 男児は米国人として外国人登録し、この春から幼稚園に通い始めている。このため、具体的には、特別養子縁組のうち外国人を養子とする「国際特別養子縁組」が考えられる。この場合、米国法上は実の親の向井さん夫妻が「同意者」になり、同時に申請者にもなるという不自然な形をとって申し立てることを余儀なくされる。
 「最高裁特別養子縁組を認める余地はあると言った以上、申し立ては通るのではないか」とみる裁判官もいるが、家裁が認めるかどうかは、申し立ててみないとわからない。
 補足意見について、向井さんは「調べてみると、大雑把な提言だった」と落胆を隠さない。特別養子縁組の期限は、向井さんの場合、双子の男児が8歳になるまでだ。
 …。

以前、このエントリで書いたように、現在のところは、代理懐胎を認めることには慎重であるべき、という立場なのですが、それとは全く別に気なった点が、なぜ、特別養子制度の申請についてのみ、出産した女性の名前を使うという形で代理出産契約をアレンジしておかなかったのだろうか、と言う点です。普通養子制度と異なり、特別養子制度は、「実方の血族」と「子」の法律上の関係を断ち切ることになります(民法817条の2第1項)。そして、特別養子の離縁は、養親による虐待などがあり、かつ実父母による相当の監護が可能な場合にのみ認められることになっています(民法817条の2第1項及び第2項)。いってみれば、男児の親としての権利義務を一切負わせないための制度ということもできるので、このような日本における現行の特別養子制度の効力を適切に説明すれば、この米国人女性も、特別養子制度の申請についてのみ自らが実親として名前を記載されるという条項をいれることを拒否しなかったのではないか、と思うわけです。でも、まあ、どんな状況でも自らの名前が使われるのはいやだったのかなぁ、とか、そもそもネバタ州の法律で、そんな例外すら認めないようになっているのかぁ、とおもいつつ、もう一度記事を読んでみたら、「補足意見について、向井さんは『調べてみると、大雑把な提言だった』と落胆を隠さない。」と書いてありまして。本当にこのような発言をしたのであれば、完全なる憶測なのですが、判決が出てから特別養子制度についてはじめて調べた、ということになりゃしませんか。これから生まれるであろう子供が居住の本拠とするであろう日本における現行法上どのような法的地位を得るのか、そして得る可能性があるのか、ということについて調べることなく、自らの望み通りの遺伝的につながりのある子を手に入れるために代理出産を実行したのでは、という疑念が出てきてしまいました。でも、さすがにそんなことはないだろうなぁ。。。

嫡出推定制度についての議論の持つ意味

 このエントリは、講義ノートの切れ端を突貫工事でつなぎ合わせた問題整理的な覚書なので、構成等々に難があるとはおもうのですが、そんなものでも少しは意味があるかなぁと。

内容としては、
(1)嫡出推定制度の概観
(2)生物学上の親子関係ではなく法律上の親子関係を論じる意味
(3)嫡出推定制度についての議論の現状
(4)まとめ
と言う感じです。

(1)嫡出推定制度の概観

1-1嫡出推定

民法772条1項によれば、「妻(法律上の婚姻関係にある女性)が婚姻中に懐胎した子」であった場合は、その夫の子と推定されます。そして、民法772条2項によって、「婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内」に生まれた子は、「婚姻中に懐胎したもの」と推定されます。

1-2嫡出否認の訴え

民法772条1項の嫡出推定ですが、これを覆すためには、嫡出否認の訴え(民法775条)によることが求められます。離婚後300日以内に生まれた子についても、嫡出推定の及ぶ限り、この嫡出否認の訴えによることが求められます。

そして、この嫡出否認の訴えには、提訴権者が母の夫に限定されていたり(民法774条)、「訴え」を提起しなければならなかったり(民法775条)、提訴期間が「夫が子の出生を知った時」から1年に限定されていたり(民法776条)と、かなりの限定がかけられています。

現在では、「夫」に提訴権者が限定されている理由として「第三者によって家族の平和が破壊されることを防ぐため」など、及び提訴期間が1年に限定されている理由として「父子関係を早期安定させて子の身分を保護するため」などが、それぞれ示されています。

ということで、嫡出否認制度と結びついた嫡出推定制度の「推定」は、通常の「推定」よりもかなり強い力が与えられています。

1-3推定の及ばない子

ただし、判例上、そもそも「嫡出推定」の及ばない場合が認められています。「推定の及ばない子」と呼ばれる問題です。

「推定の及ばない子」については、「親子関係不存在確認の訴え(人事訴訟法2条2号)」によって、父子関係を否定することができます。誰からも訴えることができ、また、民法776条の提訴期間の制限もありません。

この「推定の及ばない子」となるのはどのような場合か、ということについては、大まかに、次の三つの見解があります。

第一が、「外観説」と呼ばれる見解です。これは、懐胎期間中の夫の失踪、事実上の離婚、夫の海外滞在、夫の収監など、懐胎期間中に夫との性行為のなかったことが、同棲の欠如によって外観上明白な場合にのみ、「嫡出推定の及ばない場合」を認める、と言う見解です。判例はこの立場です(最判1969(昭和44)年5月29日民集23巻6号1064頁、最判2000(平成12)年3月14日家月52巻9号85頁)。

この見解に対しては、救済されるケースが限定されてしまう、という問題点が指摘されています。

第二が、「血縁説」と呼ばれる見解です。この説は、外観説で示されている場合に加えて、血液型、生殖能力、DNA鑑定などによって調査をしたうえで、科学的・客観的に見て夫の子ではありえない、と言う場合にも嫡出推定は及ばない、とする見解です。

この見解に対しては、当事者が平穏な家庭生活を送っているにもかかわらず、第三者である真実の父が登場して、その平穏な家庭生活を乱し子の利益につながらない、しかも生殖能力、DNAなどというプライベートな事柄を暴くことにつながる、と言う批判があります。

第三は、「家庭破綻説」と呼ばれる見解です。この見解は、血縁説を修正して、父子関係の存否を争える場合を、戸籍上の両親の別居など、家庭関係が破壊された場合に限定する、という見解です。

しかし、この見解については、結局、夫婦のプライバシーを法廷で暴くという点については、血縁説と変わらない、という批判があります。また、例えば、「他の男」の子だとしても自ら育てる意思を持って、いったん「夫」が嫡出否認をせずに自らの子として育て始めたけれども、その後、「夫」の意思ないし「妻」の意思で別居をしてしまうと、家庭生活の破綻ということになり、父子関係の存否を争えることになってしまう、ということになり、安定した親子関係の構築という子の利益にそぐわない結果になる、という批判もあります。

(2)生物学上の親子関係ではなく法律上の親子関係を論じる意味

「生物学上の親子関係」ではなく、「法律上の親子関係」を論じる意味としては、次のようなものがあります。

第一が、子、とりわけ未成熟子の養育・監護を第一次的に行う義務を負うものを法定する、という意味です。つまり、未成熟子の養育・監護を法的義務と位置づけ、その義務者を「親」とするわけです。

第二が、「相続人」を定めるため、ということになります。法律上の親子関係のある場合の「子」には、「親」の財産の「相続人」としての地位が与えられます(民法887条1項)。

第三が、「血族関係」を定めるため、ということになります。例えば、扶養に関する民法877条が関連する規定です。

この三つのうち、やはり最も重要なのは、第一の理由、ということになりましょうか。

(3)「嫡出推定制度」についての議論の現状

以上のような「法律上の親子関係を生物学上の親子関係と別に論じる理由」を踏まえたうえで、嫡出推定制度についてのこれまでの議論について、その根底に流れる理念という視点から、二つの基本的な流れを見ることができると指摘されています(以下の記述は、大村敦志家族法(第二版捕訂版)』89頁以下(有斐閣、2005年)をまとめたものです)。

一つが、法律上の「親子」関係の成立を、法律上の「婚姻」関係とは切り離して、血縁の存在に委ねる、という流れです。これは、嫡出推定の射程を小さくする方向に議論が進められます。

 ここでの「婚姻中に懐妊した子はその夫婦の子である、という建前は維持すべき」との記述について、一般論としてはそうであることを認めたとしても、少なくとも生物学的な意味での父親が夫でないことが明らかである事例について、生物学的な関係に優先してまでそうした方向を守るのはおかしな話です。生物学的な親子関係がまずあり、それに法的な意味を付加するのがあるべき順序なのですから。違う言い方をすれば、いくら建前がそうであっても、事実が違うのであれば仕方がないじゃないですか、ということです。
http://bewaad.com/2007/04/08/65/

というbewaadさんの立場は、こちらの立場、ということになりましょう。さらに、このbewaadさんの発言について言えば、生物学上の親子関係があれば、当然に、その生物学上の親に未成熟子の養育・監護を行わせるべき、という考え方が背景に存在していると推測されます。

しかし、もう一つ流れがあります。それは、法律上の親子関係の成立を、法律上の婚姻関係と結びつけて考える、という流れです。つまり、法律上の婚姻関係にある妻が出産した子は、原則としてその夫の子として引き受けられる、そしてその夫がその子の養育・監護を行う(費用を負担する)ことになる、と考えるわけです。

この流れにある見解は、推定の力を強める嫡出否認と結びついた嫡出推定制度を、親子関係、とりわけ子の法的地位の安定化を図る制度であるとして重視することになります。つまり、この流れにある見解においては、嫡出推定制度は「生物学上の父子関係の認定が困難である」と言う理由だけでなく、「親と子の権利関係を規律する」という規範的な意図が込められて設計されている、と捉えるわけです。また、子の利益は「婚姻」という制度によってより良く守られるという発想が、この流れにある議論の根底にあると考えられます。

このような分析を基礎におくと、実は、この問題は、「法律上の婚姻」をどのように位置づけるか、という問題の延長にも位置づけられると考えられます。

前者の流れは、どちらかといえば、「家族」における「法律上の婚姻」の意味をそれほど重視せず、夫婦関係、父子関係、母子関係をそれぞれ切り離して個別に考える、と言う発想に近づきます。他方、後者の流れは、「家族」における「法律上の婚姻」に意味を持たせます。つまり、法律上の婚姻関係にある夫婦の基盤のうえに、子との関係がある、と捉えるわけです。

そして、少なくとも、(1)で見た嫡出推定制度の現在の解釈を基本に置けば、現行制度は、こちらの考え方に近いということがいえます(と言うよりも、現行制度に意味を見出すのがこちらの流れ、ということになりましょうか)。

とはいえ、この後者の見解を取ったとしても、嫡出推定制度の不備を修正する必要性が否定されるものではありません。大村敦志先生は、次のように述べていらっしゃいます。

 婚姻に存在意義を認めるのであれば、嫡出推定=否認制度の空洞化は「トロイの木馬」となる。それゆえ、推定の及ばない範囲を広げたり、DNA鑑定を認めたりするのには、慎重にならざるをえない。しかし、それは直ちに現在の嫡出推定=否認制度が完璧であるということを意味しない。現行制度のもつ欠点を修正するという営み自体が、婚姻尊重と両立不能なわけではない。
大村敦志家族法(第二版捕訂版)』95頁(有斐閣、2005年)

しかし、この修正をどのように仕組むか、という問題が難しいことについて、次のように述べられています。

 …。実際上、最も重要なのは、妻Xが夫Yと別居し性関係が途絶えた後に、Zとの性関係により妊娠し、子供Wが生まれたという場合、現行法の下ではWがXYの嫡出子となってしまうのを阻止することができないということである。このような場合、XとしてはYと離婚してZと再婚し、ZとともにWを育てようと考えていることも少なくないが、そうであるとしても、Yが嫡出否認の訴えを提起してくれない限り、WZ間の親子関係は成立しようもない。
 これは、嫡出否認の訴えが出来るのは夫Yのみであるということから生ずる難点である。かつては、夫Yが争わない限り、他のものが嫡出性を否認する必要は乏しかったのだろうが、今日では、妻Xにも嫡出性を否認する可能性を開くべきではないかが問題になりうるわけである。しかし、この制度設計はかなり難しい。フランス法では事実上別居している夫婦に関しては、妻が父の欄を空欄にして出生届を提出した場合には嫡出推定は及ばないとされているが、日本ではこのような届出は認められていないし(…)、仮に認めるとしても、今度は、妻はいつでも自由に子どもの嫡出性を否定できるのかという問題が生ずることになる。今後、なお検討を要する難問である。
大村敦志家族法(第二版捕訂版)』96頁(有斐閣、2005年)

(4)まとめ

以上のような現行制度に関する議論の状況に鑑みれば、

 さらに噴飯ものなのは、「長勢法相はPT案を『民法の根幹を真っ向から違う仕組みにするもの』と批判」とのくだり。だから民法は単に推定しているに過ぎない、つまりはPT案(DNA鑑定に基づく親子関係の戸籍届出)は現行民法が許容しているものなのです。貞操やら性道徳云々は大臣個人の問題であって肩書きの問題ではないとしても、法務大臣が誤った法律解釈を公言するのはいかがなものでしょうか。
http://bewaad.com/2007/04/07/64/

とおっしゃるのは、ちょっと言い過ぎなのではないかぁ、と感じています。民法で「家族」についての規定をおくことの意味それ自体にも関わってくる問題だと捉えられるわけですから。

ただ、法務大臣が、貞操義務だの性道徳だのをこの問題について持ち出したところに関しては、「噴飯もの」なわけです。あくまでも、「子どもの利益」がこの制度の中心に位置付けられるわけですから。結論として、「法務大臣が誤った法律解釈を公言するのはいかがなものでしょうか」という部分についてはまったく異論がありません。

なお、DNA鑑定といっても、「親子である確率X%」と言うかたちで出てくるだろうと思われます。となると、これで法律上の親子関係を発生させるか否かを判断するとなると、形式的審査権しか持っていない戸籍事務所掌者が実質的審査をする結果になるのではないでしょうか。だとすれば、この問題に限定したかたちで戸籍法での対処をはかる、というのも、現状ではちょっと難しいのではないか、という印象をもっています。

おまけ

読売新聞社説(4月5日)
…。
煩雑な手続きを嫌った母親が出生届をしなかったため、子が無戸籍のままという事例もある。
…。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070404ig90.htm

本当にこのような事実があるとするならば、釈然としないですね。何らかの制度的な不備があるとするならば、それを解消する努力がなされるべきということに異論はないのですが、その制度的な不備による不利益を自分(親)が背負うのではなく、子供にまわす、という態度ってどうなんよ、と思います。しかも「煩雑さ」がいやだから、っていうのは「面倒だから」ってことじゃないですか。そりゃひどいんでないのかい、と。親の離婚も再婚も生まれてくる子供に関わりないわけです。生まれた子供を幸せにできないのは、法制度のせいだけではないでしょう。

感じたことは山ほどあれど、ことばにできないもどかしさ

 意味の前に無意味がありました。秩序の前に混沌がありました。自然は多分そういうふうに生まれてきたのです。無意味が怖いから、混沌が不安だから、人間は自然を意味づけ管理して、人間にとって心地よい秩序を確立しようとします。でもどんなに意味を求めても意味からこぼれ落ちるものがある。どんなに秩序を打ち立てようとしても混沌はなくならない。それは人間もまたロボットではなく自然の一部だからです。
…。
谷川俊太郎「生命の源」元永定正『ちんろろきしし』204頁(福音館書店、2006年)

このままでは人間としてダメになる、ということで先週のとある日の午後、伊丹市立美術館に、「もうやん えっちゃん ええほんのえ」っていう展覧会を観にいってきました*1。こちらのほうがおわりが早いということで、急遽、鍋島焼はあとまわしにしていくことに。
絵本の原画展、ということだったんですが、いやいや、とてつもなく良かった。元永定正・中辻悦子のいずれの作者の絵本も、キャラクターが決まっていて、それがストーリーに従って動くところを描く、と言う絵本ではなく、感じるままに描かれて、ことば、というより詩が載っている、と言う感じの絵本。で、そこに描かれている画が、色とかたちがとても良かった、というのも、もちろんあるんだけれど、他の誰かに「いいね」といってもらおうとして作っているのではなく、自分が「これがいいんだ!」というものを創り上げて、そのあとで、「ちょっといいものできたんだけど、これってどうよ、みてみてくんない?」とおすそ分け気分で見せてくれているような、なんともいえない清々しさを感じることができて、本当に「ほわぁ〜〜」という気分に。
さらに、絵本の原画、ということで、ことばの載っていない原画と、ことばの載っている絵本を見比べることが出来て。そのなかでも、特に、「もこ もこもこ」と言う絵本が面白かった。絵をみたときに思い描いたイメージが、それ以外のことばだと確かに表現できないよなぁ、ということばで綴られていた。ことばを扱う人間として、かなり悔しい。まあ、谷川俊太郎と比べようというのがそもそも間違っているわけだけれども。
そんな展覧会で、出会ったのが冒頭に引用した文章。『ちんろろきしし』という本のあとがき的な位置に載っている『生命の源』という谷川俊太郎の文章の冒頭なんだけれども、読んだ瞬間に、ものすごく衝撃を受けた。どういう衝撃かをことばにうまくできないけれど、例えば、院生時代に、直観的に「基本権保護義務論にはのれない」と感じたその根源が、この文章で表されているイメージである気がする、とか*2。もひとつ例えば、「無意味が怖いから、混沌が不安だから、人間は自然を意味づけ管理して、人間にとって心地よい秩序を確立しようとします」というのが、実は法学のありようを結構うまく表しているんじゃないか、とか。やっぱりうまくことばにできないや。おれは、谷川俊太郎になりたい。
最後に、この『ちんろろきしし』について興味があるのは、普通に法律をやっている人間がこの本のページを最後までめくることを耐えきれるのだろうか、ということ。この絵本は、「全く意味を持たない文字の組み合わせ」と「抽象画」が並べられているだけ。少なくとも、これまで読んできた法学論文から受ける印象からすると、法律学をやっている人は「意味をまるでもたない世界」に耐えられない気がする。まあ、「意味」とか「秩序」をどうやって組み立てるのか、ということをやっているわけだから当たり前といえば当たり前なんだけれども、でも、法学は人間の生活をまるっと対象とするわけで、そんな法学を専門としてその対象とする人間は、「意味からこぼれ落ちるもの」を無視することなく、でもそこに逃避することなく、「意味」だの「秩序」だのを考えていく、という視点を、自らの意識のほんとうに隅っこのかけらでいいから、もっている必要があるんじゃないか。「意味」だの「秩序」だので説明しきれる部分しか見ないで、「全部を体系化したんだ、えっへん」というだけということでもなく、「意味」だの「秩序」だのでは説明できないところだけをみて哲学のような抽象的な世界をぐるぐる巡るだけということでもなく。怖くて不安だから「意味」とか「秩序」を作っちゃう人間も、それでも意味からこぼれ落ちていくものをもっている人間も、全部ひっくるめて対象にできるのは、実は法学のものすごく大きな長所なのではないか、だから法学って面白いと感じるんじゃないか、何てことも思ったわけです。
なんにせよ、変な論文を書いている自分のとてもとても大事なまんなかに近いところに、最初に引用した文章で表せる何かがあるんだろうなぁ、と。そして、こんなことを「すぅ〜っ」とことばで表現できる谷川俊太郎はすごいよ、「ことばをあつかう人間」だなんていいながら少しでも比べてみてしまったり、なりたいなんていってしまったりした自分に恥じいるばかり、というところで美術館をでたんだとさ。おしまい。

*1:もちろん午前はおしごとおしごと

*2:おかげで一本余分に論文書く破目になったけれども、、、

裏方仕事を全くしないくせに口だけ出しやがる人間に成敗を

結局2月は休めませんでしたねぇ。最後の数日、何とか研究の方もちろっと進めましたが、ストレスの成果、ただでさえ広げすぎの大風呂敷をさらにどか〜んとひとげてしまえ、どうせ誰も読まん紙資源の無駄遣い論文なんだし、あとは知らん、などなど。よくないっすね。来週、気合で休みを取るぞ、おー。って休みは気を抜くためのもののはず。矛盾が切ない。
で、なにをしたいかといえば、これを見に行きたい。まだ東京にいたころ、国立博物館で鍋島焼の展示をみたときに、専門的な詳しいことは全くわからないけれども、デザインにも色彩にも、あまりの美しさに衝撃を受けたわけでして。別の展覧会を目的にいったはずだったんだけれども、それがなんだったのかすら覚えていない。う〜ん、なんとしても見に行きたいんだけれどもなぁ。あとこれもみにいきたいなぁ。結局、来年度また新作しなきゃならない講義ノウトの作成が自転車操業になる可能性がますますあがるってことっすね。

普通選挙を求める気持ちと比べるのはさすがにやりすぎかな

http://d.hatena.ne.jp/paco_q/20070220/1171917779
ここ最近は自転車を使わなくなったので,歩行者としての(あるいは車の運転者としての)自転車運転の危険性に目がいってしまいます。自転車を運転している側としては,全体が「見えている」つもりなので,歩行者が突発的な動きをしなければ危険は避けられると思いがちです。しかし,歩行者から見ると,突如後ろから接近・追い越しをしてくる自転車にはかなりひやりとさせられます。

他方,自転車を車道にという選択もかなり問題があります。記事にもあるように,道路交通法上では「軽車両」の扱いとなっているため,自転車は原則としては歩道を通行できないことになっています。しかし,車の運転者から見ると,自転車の運転は読みづらく,車道を並行して走られるとかなりの危うさを感じます。…。
ernst@hatena(2007/02/20)

多分、自転車に乗らない方のもつ普通の意識なんだと思います。が、片道10KMぐらい、自転車で通勤している身からしますと、ちょっとだけつっこみたくなるわけです。
自転車に乗らない方は、「Aから見ると,突如後ろから接近・追い越しをしてくるBにはかなりひやりとさせられます」と文章については、Aに歩行者、Bに自転車をさくっと入れるのですが、Aに自転車、Bに自動車は入れてくださらないんです。逆に「Bから見ると,Aは読みづらく,車道を並行して走られるとかなりの危うさを感じます」というときには、Bに車の運転者、Aに自転車の運転が入っているわけですが、Bに自転車、Aに歩行者とはならないんです。そうなると、自転車でそれなりの速度で中距離動いている人間からしますと、「あぁ、私のいる場所はないのね」と切なくなってしまうのです。
自転車の歩行者に対する責任は、もっともっと大きくしてもいいと思います。自転車のマナーもひどいということもわかっています。また、自転車は自動車に比べて環境負荷が極めて低いので自動車なんか乗るなぁ、なんてことをいいたいわけじゃないです。気持ちは、「せめて自転車にも交通システムの主体としての地位を与えてほしい」というものなんです。それも、もし可能ならば、「歩行者−自転車−自動車」の関係のなかで、左にある弱い立場の交通手段に対しては、右にある強い立場の交通手段が謙抑的になる、という形で。とはいえ、一方でママチャリのような歩行者に近い自転車と、ロードレーサーのように40km/h程度を平気で出せる自動車に近い自転車があるなかではなかなか難しいというのも理解しているので、どうすればいいのか、ということについては何も出せないんですが。

三つ子の魂百まで

2月に入って仕事しかしていないのに、研究が全く進んでいないのは学務学務学務だから。。。そんな中のこんなニュース。

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070221AT3S1602J21022007.html
社会人の基礎力、大学で・経産省が授業支援構想
若者が社会で仕事をする上で必要になる対話力や協調性などの「社会人基礎力」を身に付けさせる授業を各大学に導入する構想を経済産業省が打ち出した。企業と大学がカリキュラムを開発し、経産省がこれを資金面で支援する。…。
NIKKEI.NETより

たのむから余計なことをしてくれるなよ経産省。ただでさえ「ここは大学じゃないんだ」とみんなで集団自己暗示をかけながら仕事をしないと、上から降りてくるいろいろな制度を実現可能な状況にしていけないのに、、、そもそも「対話力」とか「協調性」は、就学前・小学校・中学校ではぐくむものだろう。18〜19歳までで「対話力」も「協調性」も身につけてない人間にそれらを身につけさせるのは難しいんだって。しかも、それを身につけさせる役割を担う人としては、それとしてトレーニングを受けた専門の人間でなければ危ないんじゃないでしょうかねぇ。「そんな技術をもった人を養成する」という話じゃなくて、「カリキュラムを開発する」と言う話になるところがなんだかなぁ・・・。どうしてこの国では、「教える」と言う技術がなぜにこれほど軽んじられるのか。「あることを知っている」ということと「それを相手に理解させる」と言うことの間に存在する距離、「自分で技術を身につけている」ということと「それを相手に身につけさせる」ということの間に存在する絶望的な距離は、実際に0から教えたことのある人以外でも想像できると思うんだけれども。
関係ない話をもう一つ。頼むからカリキュラムだの制度だのを変えればなにか効果が出るなんていう妄想はそろそろやめてほしい。学部なり大学院なりで長年教えていれば、その辺の「改革」は自己満足の度合いが高いってことを理解できるだろうに。